加藤清正 Ⅱ その10
『居城は経済の中心でなければならない』
信長は天下人とはいえ、この頃の身代はまだそれほどのものではありませんでした。
近畿地方の大部分と美濃・尾張くらいがその分国でした。
その中で18万石の領地を貰ったのですから、秀吉は信長の家臣中屈指の大身代になったのです。
佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀くらいが彼の上にいるだけでした。
小谷城清水谷

秀吉は小谷城を貰いはしたが、この城は要害は堅固でも、その地は山が近く、雪が深く、交通もまた
不便で、新時代の城としては不適当であるとみて、新しく居城を築くことにした。
城郭は、本来は戦争のためのものであるが、この時代になると、単に要害が堅固なだけでは、戦争に
も不適当となっています。
戦争の様相が複雑となって、広い目で戦争を考えなければならない。
そのためには、大名の居城は堅固であると同時に、その地方の経済の中心にもならなくことが必要に
なってきたのです。
このことに気づいたのは、織田信長で、その居城である岐阜城など城は稲葉山にあって堅固だが、城
下町は木曽川と長良川に挟まれた地に大きくにぎやかに営んで諸国の商人が自由に来て、さかんに商
売を営めるようにした。
今年も一年ありがとうございました。
皆さまにおかれては、輝く新年をお迎えください!
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
信長は天下人とはいえ、この頃の身代はまだそれほどのものではありませんでした。
近畿地方の大部分と美濃・尾張くらいがその分国でした。
その中で18万石の領地を貰ったのですから、秀吉は信長の家臣中屈指の大身代になったのです。
佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀くらいが彼の上にいるだけでした。
小谷城清水谷

秀吉は小谷城を貰いはしたが、この城は要害は堅固でも、その地は山が近く、雪が深く、交通もまた
不便で、新時代の城としては不適当であるとみて、新しく居城を築くことにした。
城郭は、本来は戦争のためのものであるが、この時代になると、単に要害が堅固なだけでは、戦争に
も不適当となっています。
戦争の様相が複雑となって、広い目で戦争を考えなければならない。
そのためには、大名の居城は堅固であると同時に、その地方の経済の中心にもならなくことが必要に
なってきたのです。
このことに気づいたのは、織田信長で、その居城である岐阜城など城は稲葉山にあって堅固だが、城
下町は木曽川と長良川に挟まれた地に大きくにぎやかに営んで諸国の商人が自由に来て、さかんに商
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加藤清正 Ⅱ その9
『浅井氏滅亡』
天正元年、信長は浅井征伐にとりかかり、ついに浅井父子を討ち取り、小谷城を陥れた。
小谷城(小谷城登城記は「こちら」です。)

長政は最後に臨んで、妻のお市を呼んで
「そなたは信長殿の妹じゃ、信長殿もすげなくすまい。また子供らは皆女の子なれば、これも子細は
あるまい。連れて出て、行く末を頼みまいらす」
と言って、妻子を城から出した。
この時には、子供は3人になっています。
この年に生まれたのが、3女お江です。
長女の茶々は8歳であったという。
浅井を倒すに、秀吉は始終一貫、大功績があったので、信長は小谷城を秀吉に与え、その旧領18万
石も与えた。
この時までの秀吉の身代はよく分かりませんが、3年前に1万石だったので、せいぜい5、6万石で
あったのでしょう。
一挙に大幅な大身代になったのです。
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天正元年、信長は浅井征伐にとりかかり、ついに浅井父子を討ち取り、小谷城を陥れた。
小谷城(小谷城登城記は「こちら」です。)

長政は最後に臨んで、妻のお市を呼んで
「そなたは信長殿の妹じゃ、信長殿もすげなくすまい。また子供らは皆女の子なれば、これも子細は
あるまい。連れて出て、行く末を頼みまいらす」
と言って、妻子を城から出した。
この時には、子供は3人になっています。
この年に生まれたのが、3女お江です。
長女の茶々は8歳であったという。
浅井を倒すに、秀吉は始終一貫、大功績があったので、信長は小谷城を秀吉に与え、その旧領18万
石も与えた。
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加藤清正 Ⅱ その8
『姉川の戦い』
3ヵ月たって、信長は浅井・朝倉の連合軍と姉川で大合戦し、大勝利を得た。
姉川というのは、小谷城の近くを流れて琵琶湖に注ぐ川で、合戦はその川の両岸で行われた。
姉川の戦い

姉川で敗れた後、浅井家は小谷城におしつめられた。
信長は小谷にほど近い横山城を修理して、これを秀吉に与えた。
横山城は浅井家の属城であったのを、姉川合戦の際に信長軍に奪われた城であった。
小谷と横山とは8kmしか離れていない。つまり、秀吉は織田方の最前線部隊長として、浅井家の抑
えとなったのです。
最も難しい任務であったが、働き甲斐のある仕事であった。
骨惜しみ根性など、信長に奉公に出た時からさらりと捨てている秀吉です。
よく働いて、満3年の間、見事に小谷を抑えきったのです。
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3ヵ月たって、信長は浅井・朝倉の連合軍と姉川で大合戦し、大勝利を得た。
姉川というのは、小谷城の近くを流れて琵琶湖に注ぐ川で、合戦はその川の両岸で行われた。
姉川の戦い

姉川で敗れた後、浅井家は小谷城におしつめられた。
信長は小谷にほど近い横山城を修理して、これを秀吉に与えた。
横山城は浅井家の属城であったのを、姉川合戦の際に信長軍に奪われた城であった。
小谷と横山とは8kmしか離れていない。つまり、秀吉は織田方の最前線部隊長として、浅井家の抑
えとなったのです。
最も難しい任務であったが、働き甲斐のある仕事であった。
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加藤清正 Ⅱ その7
『信頼を得る秀吉』
殿(しんがり)役を引き受けたのが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)であった。
豊臣秀吉(1537-1598年)

22歳の時、信長に小者として奉公してからこの時まで13年、人がいやがる仕事や最も困難な仕
事を、いつも進んで引き受け、あるかぎりの努力をかたむけて片付け、それによって、侍大将(部
将)にまで成り上がった秀吉は、この時もまた最も困難で危険な仕事を進んで引き受けたのです。
「よし! さらばその方にまかせよ。しっかりと働け」
信長は全速力で越前を引き上げ、若狭地峡を西走し、丹波の山中を縦走し、京都に逃げ帰った。
秀吉は見事に殿をつとめ、これまた京都に帰った。
この秀吉の奉公ぶりが信長の心を打たない筈がない。
この時から信長と浅井家とは敵対関係となり、浅井家に対する備えを南江州におくことになりますが、
その最前線の将として秀吉が任命された。
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殿(しんがり)役を引き受けたのが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)であった。
豊臣秀吉(1537-1598年)

22歳の時、信長に小者として奉公してからこの時まで13年、人がいやがる仕事や最も困難な仕
事を、いつも進んで引き受け、あるかぎりの努力をかたむけて片付け、それによって、侍大将(部
将)にまで成り上がった秀吉は、この時もまた最も困難で危険な仕事を進んで引き受けたのです。
「よし! さらばその方にまかせよ。しっかりと働け」
信長は全速力で越前を引き上げ、若狭地峡を西走し、丹波の山中を縦走し、京都に逃げ帰った。
秀吉は見事に殿をつとめ、これまた京都に帰った。
この秀吉の奉公ぶりが信長の心を打たない筈がない。
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加藤清正 Ⅱ その6
『浅井氏寝返る』
浅井の本城小谷がある琵琶湖の東岸地帯は、信長の本国である尾張・美濃と越前との連絡路線上に
ある。その路線を切られたようなものであった。
織田信長(1543-1582年)

「長政め、この大事な時、おれに煮え湯を飲ませるのか」
信長は歯ぎしりして残念がった。
しかし、腹は立っても、ぐずぐずしていては、袋のネズミになってしまう。
信長は大急ぎで京都に退却することにして、殿(しんがり)を承るべき将を求めたが、誰も承りたいと
いう者がいない。
この頃の武士は人が想像もつかぬほど勇敢であったが、全滅するに違いないと思われる役目を進んで
引き受ける者はいなかったのです。
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浅井の本城小谷がある琵琶湖の東岸地帯は、信長の本国である尾張・美濃と越前との連絡路線上に
ある。その路線を切られたようなものであった。
織田信長(1543-1582年)

「長政め、この大事な時、おれに煮え湯を飲ませるのか」
信長は歯ぎしりして残念がった。
しかし、腹は立っても、ぐずぐずしていては、袋のネズミになってしまう。
信長は大急ぎで京都に退却することにして、殿(しんがり)を承るべき将を求めたが、誰も承りたいと
いう者がいない。
この頃の武士は人が想像もつかぬほど勇敢であったが、全滅するに違いないと思われる役目を進んで
引き受ける者はいなかったのです。
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加藤清正 Ⅱ その5
『信長越前を攻める』
長政とお市の間には子供が2人生まれた。
2人とも女の子で、上が後に淀君と呼ばれるようになった茶々、次が浅井家には主筋にあたる京極高
次の夫人となったお初。
北ノ庄城の浅井3姉妹

やがてもうひとり生まれて、それが徳川2代将軍・秀忠の夫人となる小督(おごう)ですが、それは
後のことです。
こんな可愛い子供も生まれたこととて、浅井家と織田家の親しみは深まるばかりであった。
そこで、信長はもうまさか浅井家が自分に背くことはないであろうと計算して、朝倉征伐に10余万
の大軍勢を、京都から近江の坂本に繰り出し、琵琶湖の西側を通って北進し、越前敦賀に入った。
草木もなびく勢いで、最初の日に手筒山城を、翌日は金ケ崎城を陥れ、無人の野を行くがごとき、怒
涛の勢いで木の芽峠越え、一筋に朝倉家の本城がある一乗谷を目指そうとしたが、その時、後方から
飛報が入った。「「浅井殿が朝倉方に心を通じ、謀反の色を立てられた」
というのです。
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長政とお市の間には子供が2人生まれた。
2人とも女の子で、上が後に淀君と呼ばれるようになった茶々、次が浅井家には主筋にあたる京極高
次の夫人となったお初。
北ノ庄城の浅井3姉妹

やがてもうひとり生まれて、それが徳川2代将軍・秀忠の夫人となる小督(おごう)ですが、それは
後のことです。
こんな可愛い子供も生まれたこととて、浅井家と織田家の親しみは深まるばかりであった。
そこで、信長はもうまさか浅井家が自分に背くことはないであろうと計算して、朝倉征伐に10余万
の大軍勢を、京都から近江の坂本に繰り出し、琵琶湖の西側を通って北進し、越前敦賀に入った。
草木もなびく勢いで、最初の日に手筒山城を、翌日は金ケ崎城を陥れ、無人の野を行くがごとき、怒
涛の勢いで木の芽峠越え、一筋に朝倉家の本城がある一乗谷を目指そうとしたが、その時、後方から
飛報が入った。「「浅井殿が朝倉方に心を通じ、謀反の色を立てられた」
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加藤清正 Ⅱ その4
『お市浅井家に嫁ぐ』
織田家と朝倉家は、足利時代に越前と尾張の守護大名であった斯波家の老臣の家柄で、その頃から
勢力を競い合って不和であったのが、ずっと尾を引いて、この時代まで及んでいたのです。
お市の方(1547-1583年)

もっとも、信長の家は、斯波家の老臣であった織田家の家老であった織田家で、織田は織田でも朝
倉家と勢力を競い合った織田家ではありませんが、それでも織田の末家なので朝倉家と不和であっ
たという。
この浅井家の言葉に、信長は
「先祖はどうであったろうとも、拙者は決して朝倉家に対して悪意は抱いておりません。将来とも
朝倉家と合戦などのことにおよばないことをお誓いします」
と確信した。
それで縁談は成立し、お市は浅井家に輿入れした。
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織田家と朝倉家は、足利時代に越前と尾張の守護大名であった斯波家の老臣の家柄で、その頃から
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お市の方(1547-1583年)

もっとも、信長の家は、斯波家の老臣であった織田家の家老であった織田家で、織田は織田でも朝
倉家と勢力を競い合った織田家ではありませんが、それでも織田の末家なので朝倉家と不和であっ
たという。
この浅井家の言葉に、信長は
「先祖はどうであったろうとも、拙者は決して朝倉家に対して悪意は抱いておりません。将来とも
朝倉家と合戦などのことにおよばないことをお誓いします」
と確信した。
それで縁談は成立し、お市は浅井家に輿入れした。
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