加藤清正 Ⅱ その66
『豪族らを威圧』
「近く全力をあげて、上月城を奪回する」
と、宣言して、播州・但馬の豪族らにも、それぞれに使いを出して温言と威迫をもって口説き立てた。
強国の間に挟まれた群小国は弱々しく伸びた雑草に等しい。
豊臣秀吉

東の風が吹けば西になびき、西の風が強くなれば東になびくより他はない。
たえず強国の勢力と消長と出ようとに注意をはらって、強い方に所属するほかに自存の途はないので
す。
播州の豪族らは心を動揺させていたのです。
このことは、小寺官兵衛の知らせで、秀吉にはわかっていたので、秀吉はその用意をして、安土を出
てきたのです。
加古川に豪族全員を集めて今後の方針の評議を行うというものですが、大いに軍容を華々しくして来
たという。
威圧するためであること言うまでありません。
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<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
「近く全力をあげて、上月城を奪回する」
と、宣言して、播州・但馬の豪族らにも、それぞれに使いを出して温言と威迫をもって口説き立てた。
強国の間に挟まれた群小国は弱々しく伸びた雑草に等しい。
豊臣秀吉

東の風が吹けば西になびき、西の風が強くなれば東になびくより他はない。
たえず強国の勢力と消長と出ようとに注意をはらって、強い方に所属するほかに自存の途はないので
す。
播州の豪族らは心を動揺させていたのです。
このことは、小寺官兵衛の知らせで、秀吉にはわかっていたので、秀吉はその用意をして、安土を出
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加藤清正 Ⅱ その65
『加古川で評議』
秀吉は安土を出発する少し前、全播州の豪族らに、今後の方針について評議したいから、古川に集
合するようにと通達状を発しておいた。
賤ケ岳の七本槍の糟屋武則

3月7日、加古川に到着して、糟屋武則の館に入った。
元来、加古川はここの東北方15kmの地点にある三木に本拠を持つ、別所氏の領分で、糟屋氏は
別所の部下であった。
後にこの人は秀吉の家来となり、賤ケ岳の7本槍の一人になっています。
加古川には多数の豪族らが集まっており、なおも続々と集まりつつあった。
この頃、播州の豪族らの心は少し動揺しつつあった。
秀吉が織田勢力の先鋒として播州に出て、時の間に播州と但馬を平らげ、毛利勢力の前進基地とも
いうべき上月城を陥れ、これに数代連綿として遺恨を研ぎ続けてきた、反毛利勢力である尼子衆を
籠めたので、毛利氏は恐ろしく刺激されたのです。
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秀吉は安土を出発する少し前、全播州の豪族らに、今後の方針について評議したいから、古川に集
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賤ケ岳の七本槍の糟屋武則

3月7日、加古川に到着して、糟屋武則の館に入った。
元来、加古川はここの東北方15kmの地点にある三木に本拠を持つ、別所氏の領分で、糟屋氏は
別所の部下であった。
後にこの人は秀吉の家来となり、賤ケ岳の7本槍の一人になっています。
加古川には多数の豪族らが集まっており、なおも続々と集まりつつあった。
この頃、播州の豪族らの心は少し動揺しつつあった。
秀吉が織田勢力の先鋒として播州に出て、時の間に播州と但馬を平らげ、毛利勢力の前進基地とも
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加藤清正 Ⅱ その64
『尾張は法華経が多かった』
3月はじめ、秀吉はまた播州に向かった。もちろん、虎之介も一緒です。
母と別れる時、虎之介は
「からだに気をつけてくだされや。やがて殿様のお仕事は進んで、毛利の勢力を追い払って、備前、
美作、因幡の3国も手に入れます。そうすれば、殿様は姫路をほんとのお城になさいましょうから、
わたくしも屋敷をたまわるでありましょう。かか様をお迎えして、一緒に暮らすことが出来るのです。
それを楽しみに、からだに気をつけてくだされや」
と、言うと。
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』

母もこう言った。
「わたしのことは心配せんでくだされ。わたしは法華経に護られている。お題目を唱え、このありが
とうお経を唱えていれば、災難も病気も向こうからよける。そなたも、お題目を唱えることを忘れて
はなりませんぞ」
「決して忘れません」
と、虎之介は言った。
この時代には尾張は法華経が最も盛んなところであった。
信長は何の信仰もない人でしたが、その家の宗旨は法華経であったのです。
また、秀吉の家もそうでした。
秀吉の姉は晩年、尼となって日秀と名のっています。
虎之介もそうだったのです。
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3月はじめ、秀吉はまた播州に向かった。もちろん、虎之介も一緒です。
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美作、因幡の3国も手に入れます。そうすれば、殿様は姫路をほんとのお城になさいましょうから、
わたくしも屋敷をたまわるでありましょう。かか様をお迎えして、一緒に暮らすことが出来るのです。
それを楽しみに、からだに気をつけてくだされや」
と、言うと。
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』

母もこう言った。
「わたしのことは心配せんでくだされ。わたしは法華経に護られている。お題目を唱え、このありが
とうお経を唱えていれば、災難も病気も向こうからよける。そなたも、お題目を唱えることを忘れて
はなりませんぞ」
「決して忘れません」
と、虎之介は言った。
この時代には尾張は法華経が最も盛んなところであった。
信長は何の信仰もない人でしたが、その家の宗旨は法華経であったのです。
また、秀吉の家もそうでした。
秀吉の姉は晩年、尼となって日秀と名のっています。
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加藤清正 Ⅱ その63
『上月城は尼子党が守る』
秀吉は、上月城には尼子党を入れて守らせた。
この頃、毛利の勢力は備前までのびて、備前の宇喜多真家は毛利の属国的地位あり、現に秀吉が
上月城を攻めた時には、自ら兵を率いて押し寄せて来た。
秀吉は一戦にたたき破って追い散らした。
上月城址

こんなわけで、上月城は織田勢力が毛利勢力と接触する最前線となった。
尼子党は毛利に最も強い怨みを持っており、この敵に対して大功を立て、家を再興したい熱情に燃
えていた。
「ぜひ、拙者どもにこの城を任せていただきたい」
というので、秀吉もそうしたのであった。
首尾上々であったので、秀吉は留守隊をおいて、一旦、近江に帰り、信長に軍情を報告して、しば
らく休養した。
安土と長浜の間を往復して、年を越して3月はじめまで江州に留まったので、虎之介も時々、母の
膝下にいることができた。
親の愛情は子供が多いからとて分散して薄くなるものではありません。
どの子もそれぞれに可愛いものですが、親ひとり、子ひとり、それも母親ひとり、子ひとりときて
は、格別なものがあり、母は惜しみない愛情を虎之介に注いだ。
虎之介もまた不在のときの分までもと、母につかえたのでしょう。
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秀吉は、上月城には尼子党を入れて守らせた。
この頃、毛利の勢力は備前までのびて、備前の宇喜多真家は毛利の属国的地位あり、現に秀吉が
上月城を攻めた時には、自ら兵を率いて押し寄せて来た。
秀吉は一戦にたたき破って追い散らした。
上月城址

こんなわけで、上月城は織田勢力が毛利勢力と接触する最前線となった。
尼子党は毛利に最も強い怨みを持っており、この敵に対して大功を立て、家を再興したい熱情に燃
えていた。
「ぜひ、拙者どもにこの城を任せていただきたい」
というので、秀吉もそうしたのであった。
首尾上々であったので、秀吉は留守隊をおいて、一旦、近江に帰り、信長に軍情を報告して、しば
らく休養した。
安土と長浜の間を往復して、年を越して3月はじめまで江州に留まったので、虎之介も時々、母の
膝下にいることができた。
親の愛情は子供が多いからとて分散して薄くなるものではありません。
どの子もそれぞれに可愛いものですが、親ひとり、子ひとり、それも母親ひとり、子ひとりときて
は、格別なものがあり、母は惜しみない愛情を虎之介に注いだ。
虎之介もまた不在のときの分までもと、母につかえたのでしょう。
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加藤清正 Ⅱ その62
『武辺は律儀にあり』
市松はどうであったかわかりませんが、虎之介にとっては、鹿之助のこの言葉は自分の好みにもピ
ッタリとあった。
『武辺は律儀にあり』
この言葉は、虎之介の胸に深く刻み込まれ、生涯の指針になったという。
虎之介と市松が、このように山中鹿之助を尊敬し、近づくのを佐吉(三成)は冷たい目で見ている
ようであった。
「鹿之助は失敗者だ。失敗者から何を教わるのじゃ」
と、その美しい色白な顔は言っているようであった。
小寺(黒田)官兵衛

一方、秀吉は播州では姫路城に腰を据えて、経略にかかった。
ここは小寺官兵衛の居城であった。
織田信長に全面的に協力するより自存の途はないと見極めをつけて心を固めている官兵衛は秀吉と
も早くから親交を結んで、大いにそのため働く覚悟を決めていたので、自ら進んで居城を明け渡す
して提供していたのです。
官兵衛の協力はそれだけではなく、播磨中を駆け回り、国内かの豪族らを説いて、織田家に帰服す
る約束を取り決め、誓書と人質をとりまとめた。
前からその下工作をしていたとはいえ、わずか5日間の動きであった。
官兵衛がいかに働きのある人物であったかがわかります。
小寺官兵衛の働きで、播州全部を帰属させると、秀吉はこれを信長に報告しておいて、自ら兵を率
いて、播州の但馬に向かい、反抗する諸城を次々に攻め落とし、兵を返して美作と備前とに近い上
月城を攻囲し、一週間で陥れた。
これで播州と但馬、つまり今の兵庫県全部が織田家の勢力範囲となり、秀吉の旗風になびくことに
なった。
時に12月4日、秀吉が姫路城に入ってわずか40日であった。
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市松はどうであったかわかりませんが、虎之介にとっては、鹿之助のこの言葉は自分の好みにもピ
ッタリとあった。
『武辺は律儀にあり』
この言葉は、虎之介の胸に深く刻み込まれ、生涯の指針になったという。
虎之介と市松が、このように山中鹿之助を尊敬し、近づくのを佐吉(三成)は冷たい目で見ている
ようであった。
「鹿之助は失敗者だ。失敗者から何を教わるのじゃ」
と、その美しい色白な顔は言っているようであった。
小寺(黒田)官兵衛

一方、秀吉は播州では姫路城に腰を据えて、経略にかかった。
ここは小寺官兵衛の居城であった。
織田信長に全面的に協力するより自存の途はないと見極めをつけて心を固めている官兵衛は秀吉と
も早くから親交を結んで、大いにそのため働く覚悟を決めていたので、自ら進んで居城を明け渡す
して提供していたのです。
官兵衛の協力はそれだけではなく、播磨中を駆け回り、国内かの豪族らを説いて、織田家に帰服す
る約束を取り決め、誓書と人質をとりまとめた。
前からその下工作をしていたとはいえ、わずか5日間の動きであった。
官兵衛がいかに働きのある人物であったかがわかります。
小寺官兵衛の働きで、播州全部を帰属させると、秀吉はこれを信長に報告しておいて、自ら兵を率
いて、播州の但馬に向かい、反抗する諸城を次々に攻め落とし、兵を返して美作と備前とに近い上
月城を攻囲し、一週間で陥れた。
これで播州と但馬、つまり今の兵庫県全部が織田家の勢力範囲となり、秀吉の旗風になびくことに
なった。
時に12月4日、秀吉が姫路城に入ってわずか40日であった。
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加藤清正 Ⅱ その61
『鹿之助の教え』
山中鹿之助は体格勇壮で、色白く、眼光けいけい、左右に分かれた口ひげ、頬ひげが黒々とした、
見るからに勇士らしい相貌の人物であったといいます。
虎之介と市松は、播州への旅中、また播州へ着いてからも、暇を利用しては鹿之助へ近づき、武士
としての心掛けについて教示をこうたり、戦さ話を聞かせてもらったりした。
山中鹿之助(1545-1578年)

これは当時の武士の学問であったのでしょう。
書物による学問はきわめて特別な人に限られて、武士社会では千人にひとりも書物による学問をす
る者はなかったそうです。
従って教える師匠も殆んどいない。
第一、学問そのものが極端に観念的で、実人物と遊離しすぎていたのです。
鹿之助は、秀吉側近のこの2人の若者の心掛けを喜んで、いつでもこころよく相手になって、よい
話を聞かせてくれたが、それらの話の中で、虎之介が最も感銘深く聞いたのは、
「拙者は武辺は律儀にあると思っています。拙者の経験では、真の武辺者は大へん律儀なものです。
労少なくして功だけ上げることだけ考えているような小ざかしい人間に真の武辺者はいないもので
す。武士は律儀で、心剛でさえあれば、戦場慣れして来るにつれて、駆け引きも自在となり、従って
人にすぐれた手柄もほぼ自由に立てられるようになります。骨折りをいとうて上手いことばかりしよ
うと心掛けているようなことでは、とうてい、一度や二度はこぼれ幸いを拾うこともないことはない
が、このような者は多くはそのうち、取り返しのつかぬ破廉恥な失策をして、人が相手せぬようにな
ります。拙者はその実例を数多く見て来ています」
といったことであった。
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山中鹿之助は体格勇壮で、色白く、眼光けいけい、左右に分かれた口ひげ、頬ひげが黒々とした、
見るからに勇士らしい相貌の人物であったといいます。
虎之介と市松は、播州への旅中、また播州へ着いてからも、暇を利用しては鹿之助へ近づき、武士
としての心掛けについて教示をこうたり、戦さ話を聞かせてもらったりした。
山中鹿之助(1545-1578年)

これは当時の武士の学問であったのでしょう。
書物による学問はきわめて特別な人に限られて、武士社会では千人にひとりも書物による学問をす
る者はなかったそうです。
従って教える師匠も殆んどいない。
第一、学問そのものが極端に観念的で、実人物と遊離しすぎていたのです。
鹿之助は、秀吉側近のこの2人の若者の心掛けを喜んで、いつでもこころよく相手になって、よい
話を聞かせてくれたが、それらの話の中で、虎之介が最も感銘深く聞いたのは、
「拙者は武辺は律儀にあると思っています。拙者の経験では、真の武辺者は大へん律儀なものです。
労少なくして功だけ上げることだけ考えているような小ざかしい人間に真の武辺者はいないもので
す。武士は律儀で、心剛でさえあれば、戦場慣れして来るにつれて、駆け引きも自在となり、従って
人にすぐれた手柄もほぼ自由に立てられるようになります。骨折りをいとうて上手いことばかりしよ
うと心掛けているようなことでは、とうてい、一度や二度はこぼれ幸いを拾うこともないことはない
が、このような者は多くはそのうち、取り返しのつかぬ破廉恥な失策をして、人が相手せぬようにな
ります。拙者はその実例を数多く見て来ています」
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加藤清正 Ⅱ その60
『尼子衆も率いて西へ』
秀吉は、3千余人の兵と他に尼子衆を率いて、昨年から信長の城下となっている江州・安土を出発
して西に向かった。
毛利元就(1497-1571年)

尼子氏は出雲の領主で、一時は山陰地方の大勢力で、その勢力は山陽道にもおよび、ある時期には
毛利元就もその被官となっていたこともある。
後、毛利氏は次第に強大となり、ついに尼子氏を亡ぼしています。
それはこの時から11年前のことでした。
尼子の遺臣・山中鹿之助らは主家の再興を志し、その3年後、尼子勝久が京都東福寺で僧になって
いるのをたずね出し、還俗させて主君と仰ぎ、同士わずか63人、雑兵を合わせて200余人とい
う、小人数で出雲に入って兵をかき集め毛利勢力を駆逐した。
一時はなかなかの勢いで、出雲を平げ、伯耆を略し、石見に入って、毛利氏が虎の子のように大事
にしている銀山まで脅かすほどであったが、じりじりとおし返してくる毛利氏の底力に押されて、
出雲に入って2年後には完全に追いおとされ、鹿之助は捕らわれの身となった。
鹿之助は勇士猛卒雲のようであった当時すら、万夫不当の勇士として有名だった人です。
また、百折不撓の意志の堅剛さは、日本歴史上第一人者といわれます。
へこたれない。毛利の囚われを脱して京に上り、信長に喝して、主家の再興を願い出ています。
これが、尼子衆がこんど秀吉に従って播州に向かうに至ったいきさつです。
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<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
秀吉は、3千余人の兵と他に尼子衆を率いて、昨年から信長の城下となっている江州・安土を出発
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毛利元就(1497-1571年)

尼子氏は出雲の領主で、一時は山陰地方の大勢力で、その勢力は山陽道にもおよび、ある時期には
毛利元就もその被官となっていたこともある。
後、毛利氏は次第に強大となり、ついに尼子氏を亡ぼしています。
それはこの時から11年前のことでした。
尼子の遺臣・山中鹿之助らは主家の再興を志し、その3年後、尼子勝久が京都東福寺で僧になって
いるのをたずね出し、還俗させて主君と仰ぎ、同士わずか63人、雑兵を合わせて200余人とい
う、小人数で出雲に入って兵をかき集め毛利勢力を駆逐した。
一時はなかなかの勢いで、出雲を平げ、伯耆を略し、石見に入って、毛利氏が虎の子のように大事
にしている銀山まで脅かすほどであったが、じりじりとおし返してくる毛利氏の底力に押されて、
出雲に入って2年後には完全に追いおとされ、鹿之助は捕らわれの身となった。
鹿之助は勇士猛卒雲のようであった当時すら、万夫不当の勇士として有名だった人です。
また、百折不撓の意志の堅剛さは、日本歴史上第一人者といわれます。
へこたれない。毛利の囚われを脱して京に上り、信長に喝して、主家の再興を願い出ています。
これが、尼子衆がこんど秀吉に従って播州に向かうに至ったいきさつです。
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