加藤清正 Ⅱ その98
『竹中半兵衛の没』
黒田官兵衛とならんで、秀吉の左右の腕とまで評判された竹中半兵衛。
おしいことに三木城攻めの最中、肺結核が重態となって死んだ。
竹中半兵衛の墓(竹中半兵衛お墓詣りは「こちら」です。)

天才的な智略はないが、そのかわりに忠実さがあって、秀吉にとっては最も大事な人物であった。
秀吉は蜂須賀正勝を呼んで、鳥取城の方をあごで示して
「なかなか堅固な城じゃな」
と言った。
「御意(ぎょい))、力攻めではいかがかと存じます」
と、正勝はいう。
「うむ、それもそうじゃが、少し思うところもある。搦手(からめて)の様子を見て来てくれまいか」
「かしこまりました。若い衆を連れてまいりたいと存じますが・・・」
「良かろう」
といって、秀吉が近習の方を振りかえった時、虎之介は進み出ていた。
「拙者をお連れくだされ」
「よし」
秀吉はうなずき、正勝は微笑した。
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<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
黒田官兵衛とならんで、秀吉の左右の腕とまで評判された竹中半兵衛。
おしいことに三木城攻めの最中、肺結核が重態となって死んだ。
竹中半兵衛の墓(竹中半兵衛お墓詣りは「こちら」です。)

天才的な智略はないが、そのかわりに忠実さがあって、秀吉にとっては最も大事な人物であった。
秀吉は蜂須賀正勝を呼んで、鳥取城の方をあごで示して
「なかなか堅固な城じゃな」
と言った。
「御意(ぎょい))、力攻めではいかがかと存じます」
と、正勝はいう。
「うむ、それもそうじゃが、少し思うところもある。搦手(からめて)の様子を見て来てくれまいか」
「かしこまりました。若い衆を連れてまいりたいと存じますが・・・」
「良かろう」
といって、秀吉が近習の方を振りかえった時、虎之介は進み出ていた。
「拙者をお連れくだされ」
「よし」
秀吉はうなずき、正勝は微笑した。
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加藤清正 Ⅱ その97
『正勝は秀吉に忠実に仕える』
蜂須賀正勝は、秀吉の家来になったわけではなく、信長の家来になったのです。
しかし、本人の希望と、秀吉との昔からの関係を考慮されて、秀吉の寄騎とされた。
豊臣秀吉(1537-1598年)

寄騎というのは、寄親の指揮にもとに立って働く将校のことです。この場合、寄親はもちろん秀吉
であった。
こんな訳で、厳密には秀吉と正勝は主従ではなかったが、正勝は主人に仕えるように忠実に秀吉に
仕えた。
昔と正反対になった訳ですが、正勝は少しもそんなことには構わなかったのです。
秀吉のように、土民から成り上がったために、一人の譜代の家来もなく、やっと弟の小一郎、妻の
一族に譜代の老臣を代用させている者にとって、正勝のような人物は実に得難いものであった。
尾州の片田舎の小豪族ではあるが、険しい戦国の世にもまれながら、ともかくも蜂須賀郷も領地を
失わないで持ち続けて来ただけあって、社会の機微、交渉の駆け引き、戦さの法等よく通じている。
いわゆる古つわものであった。
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蜂須賀正勝は、秀吉の家来になったわけではなく、信長の家来になったのです。
しかし、本人の希望と、秀吉との昔からの関係を考慮されて、秀吉の寄騎とされた。
豊臣秀吉(1537-1598年)

寄騎というのは、寄親の指揮にもとに立って働く将校のことです。この場合、寄親はもちろん秀吉
であった。
こんな訳で、厳密には秀吉と正勝は主従ではなかったが、正勝は主人に仕えるように忠実に秀吉に
仕えた。
昔と正反対になった訳ですが、正勝は少しもそんなことには構わなかったのです。
秀吉のように、土民から成り上がったために、一人の譜代の家来もなく、やっと弟の小一郎、妻の
一族に譜代の老臣を代用させている者にとって、正勝のような人物は実に得難いものであった。
尾州の片田舎の小豪族ではあるが、険しい戦国の世にもまれながら、ともかくも蜂須賀郷も領地を
失わないで持ち続けて来ただけあって、社会の機微、交渉の駆け引き、戦さの法等よく通じている。
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加藤清正 Ⅱ その96
『彦右衛門正勝との再会』
その後、20年近く経って、秀吉は奇計をもって、秀吉のため墨俣城を築き、この城代を命ぜられ
た。
城は木曽川の対岸にあり、たえず美濃の斎藤勢の襲撃を受ける恐れがある。
蜂須賀正勝と藤吉郎(秀吉)の出会いの絵

秀吉は蜂須賀村に行き、昔の小六正勝、今は蜂須賀正勝に会って、昔の礼を言い、今の自分の身分
を名のり、力を貸してもらいたいと頼んだ。
「よかろう。袖をすり合うも他生の縁という。そなたがこの家に居たのは、そう長い間ではなかっ
たが、そなたのことは奇妙に心の底に残っている。こうして20年にもなって、えらい出世して訪
ねて来てくれて、わしの力を借りたいと言ってくれるとは、浅からぬ縁(えにし)があればこその
ことと思う。そのうえ、わしはこの年まで一生懸命働いても、いっこうに芽が出ず、昔ながらに蜂
須賀一郷の主であいかないが、おことはあの身分から、20年の間に、織田信長殿の家中で、一城
をあずかる身分となった。よっぽど運に恵まれている生まれつきに相違ない。わしはおことについて、
運を開こうと思う。よろしゅうこちらから頼みます」
と、正勝はすぐ承知した。
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その後、20年近く経って、秀吉は奇計をもって、秀吉のため墨俣城を築き、この城代を命ぜられ
た。
城は木曽川の対岸にあり、たえず美濃の斎藤勢の襲撃を受ける恐れがある。
蜂須賀正勝と藤吉郎(秀吉)の出会いの絵

秀吉は蜂須賀村に行き、昔の小六正勝、今は蜂須賀正勝に会って、昔の礼を言い、今の自分の身分
を名のり、力を貸してもらいたいと頼んだ。
「よかろう。袖をすり合うも他生の縁という。そなたがこの家に居たのは、そう長い間ではなかっ
たが、そなたのことは奇妙に心の底に残っている。こうして20年にもなって、えらい出世して訪
ねて来てくれて、わしの力を借りたいと言ってくれるとは、浅からぬ縁(えにし)があればこその
ことと思う。そのうえ、わしはこの年まで一生懸命働いても、いっこうに芽が出ず、昔ながらに蜂
須賀一郷の主であいかないが、おことはあの身分から、20年の間に、織田信長殿の家中で、一城
をあずかる身分となった。よっぽど運に恵まれている生まれつきに相違ない。わしはおことについて、
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加藤清正 Ⅱ その95
『秀吉の生い立ち』
秀吉はまだ物心もつかない頃に実父と死別し、その後、母に入夫して来た継父とどうにも気が合わな
かったので、早くから家を飛び出し、尾張から、美濃、時によっては伊勢、江州、三河の辺まで、戦
災孤児のような姿で放浪して歩いたといいますが、蜂須賀村に行き、その家に厄介になり、飯を食わ
せてもらった時期があった。
秀吉誕生の地(名古屋市中村区)

戦場にも連れて行ってもらったし、ゲリラ働きにも一緒に行ったし、夜討強盗、放火などを党がする
時には、ヤマ見役を言いつかったりもした。
面白かったが、その頃の秀吉は、放浪のくせが身について、一か所に落ち着いていることが出来ない。
やがて飛び出して、また放浪の身になった。
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秀吉はまだ物心もつかない頃に実父と死別し、その後、母に入夫して来た継父とどうにも気が合わな
かったので、早くから家を飛び出し、尾張から、美濃、時によっては伊勢、江州、三河の辺まで、戦
災孤児のような姿で放浪して歩いたといいますが、蜂須賀村に行き、その家に厄介になり、飯を食わ
せてもらった時期があった。
秀吉誕生の地(名古屋市中村区)

戦場にも連れて行ってもらったし、ゲリラ働きにも一緒に行ったし、夜討強盗、放火などを党がする
時には、ヤマ見役を言いつかったりもした。
面白かったが、その頃の秀吉は、放浪のくせが身について、一か所に落ち着いていることが出来ない。
やがて飛び出して、また放浪の身になった。
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加藤清正 Ⅱ その94
『蜂須賀党』
秀吉は鳥取城下に着くと、蜂須賀正勝を召した。
蜂須賀氏は織田信長の父・信秀の居城があった、尾張の勝幡近くの蜂須賀郷の小豪族であった。
蜂須賀正勝(1526-1586年)

弱肉強食の戦国の世には、有力な大名の家来分にならなければ、自存することが出来ないので、美濃
の斎藤氏仕えたり、信長の家と別系統である犬山の織田氏に仕えたりしたが、どこにも仕えなかった
時代もあった。
その時期には、同じような小豪族が集まって党(一揆ともいう)をつくって、雇兵団となって近くの
大名らに武力を売りつけて戦場働きをしたり、場合によっては敵国にゲリラ働きしたり、雇主のない
時には落武者狩りして武器武具を剥いだり、よっぽど暇な時は夜討強盗もしたり、つまり、野武士と
称せられる者となった。
蜂須賀党といえば、野武士としても相当名を響かせていた。
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秀吉は鳥取城下に着くと、蜂須賀正勝を召した。
蜂須賀氏は織田信長の父・信秀の居城があった、尾張の勝幡近くの蜂須賀郷の小豪族であった。
蜂須賀正勝(1526-1586年)

弱肉強食の戦国の世には、有力な大名の家来分にならなければ、自存することが出来ないので、美濃
の斎藤氏仕えたり、信長の家と別系統である犬山の織田氏に仕えたりしたが、どこにも仕えなかった
時代もあった。
その時期には、同じような小豪族が集まって党(一揆ともいう)をつくって、雇兵団となって近くの
大名らに武力を売りつけて戦場働きをしたり、場合によっては敵国にゲリラ働きしたり、雇主のない
時には落武者狩りして武器武具を剥いだり、よっぽど暇な時は夜討強盗もしたり、つまり、野武士と
称せられる者となった。
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加藤清正 Ⅱ その93
『鳥取城攻略』
三木の開城から4ヵ月、5月には秀吉は山陰方面の因幡に兵を進めます。
因幡は元来、山名氏が守護大名ちして栄えたところですが、この時代、山名氏はもうそれほどの勢
いはなく、その勢力が及ぶところはわずかに石見1郡だけで、他は諸豪族によって占められていた。
山名豊国(1548ー1626年)

そのうえ、その山名氏も他の豪族らも、すべて毛利の旗風になびいて、一国全部が毛利の勢力範囲
になっていたのです。
秀吉は山名豊国が籠る鳥取城から16、7km西方の鹿野城を陥れ、ここに毛利勢がとりこめて人
質としていた豊国の娘を捕らえて、係りの者を定めて丁重に庇護するように命じておいて、鳥取城
に押し寄せた。
鳥取城は東に帝釈摩尼山をひかえ、西に賀露川を帯び、その中間の久松山の尾に築かれた、いたっ
て要害堅固な城であった。
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三木の開城から4ヵ月、5月には秀吉は山陰方面の因幡に兵を進めます。
因幡は元来、山名氏が守護大名ちして栄えたところですが、この時代、山名氏はもうそれほどの勢
いはなく、その勢力が及ぶところはわずかに石見1郡だけで、他は諸豪族によって占められていた。
山名豊国(1548ー1626年)

そのうえ、その山名氏も他の豪族らも、すべて毛利の旗風になびいて、一国全部が毛利の勢力範囲
になっていたのです。
秀吉は山名豊国が籠る鳥取城から16、7km西方の鹿野城を陥れ、ここに毛利勢がとりこめて人
質としていた豊国の娘を捕らえて、係りの者を定めて丁重に庇護するように命じておいて、鳥取城
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鳥取城は東に帝釈摩尼山をひかえ、西に賀露川を帯び、その中間の久松山の尾に築かれた、いたっ
て要害堅固な城であった。
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加藤清正 Ⅱ その92
『清正の体格容貌』
三木開城の天正8年に、清正は22歳で、すっかり成人していた訳ですが、どんな体格容貌になって
いたのでしょう。
彼の体格容貌については、若い頃のことは記述したものはありません。
加藤清正公像(本妙寺)

ずっと後年にの江戸時代になってからのことですが、落穂集という書物に出てきます。
それによると、彼は三尺五寸の刀を常ざしの脇差にし、くじら尺四尺二寸に仕立てた着物を着て、裾
が三里(ひざ脇の灸点)の少し下にかかるくらいであったという。
この計算からすると、どうしても六尺五、六寸の身長でなければならない。
かりに肩と胸がうんと厚かったとしても、六尺二、三寸の身長はあったと思われます。
22歳なら、これ位の体格になっていたのでしょう。
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加藤清正公像(本妙寺)

ずっと後年にの江戸時代になってからのことですが、落穂集という書物に出てきます。
それによると、彼は三尺五寸の刀を常ざしの脇差にし、くじら尺四尺二寸に仕立てた着物を着て、裾
が三里(ひざ脇の灸点)の少し下にかかるくらいであったという。
この計算からすると、どうしても六尺五、六寸の身長でなければならない。
かりに肩と胸がうんと厚かったとしても、六尺二、三寸の身長はあったと思われます。
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