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加藤清正 Ⅱ その158

『江州長浜を勝家に』

所領分けでは、秀吉は江州長浜を、柴田勝家に譲り、光秀の所領であった丹波を自分のものにした

以外に、山崎の宝寺を城とする権利を得た。

長浜城(長浜城登城記は「こちら」です。)
na.長浜城 010

秀吉は、山崎に城を持つことにしたのは、京都の近くに足場を持つことが将来のためとみたからで

す。

彼の領地は、播磨と丹波であり、姫路がその本拠ですが、姫路では京都から離れすぎるので、山崎

の宝寺を城とする権利を得たのです。

秀吉は、ここに居たきりで、姫路には当分帰らないことにしたので、清州から山崎に引き上げて来

ると、姫路に使いを出した。

その使いには清正が選ばれた。

「大体書面に書かせておいたが、なお汝(われ)が詳しく話してやるよう」

と言って、秀吉は手紙を渡した。

秀吉がとくに清正を選んだのは、母に会わせてやろうという恩情であった。

清正は感激して、姫路に急いだ。



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robin 20230531




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
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加藤清正 Ⅱ その157

『清州会議』

清州会議の主宰者である勝家が、秀吉を嫌い、秀吉を蹴落とそうとしているのですから、会議の空気

は最初のうちは険悪を極めた。

清州城(清州城登城記は「こちら」です。)
ki.清洲城 001

しかし、なんといっても、弔い合戦を企て、中心になって成し遂げたのは、秀吉です。

この功績の前には、信長の第一の長臣であり、首位将軍である勝家の威名も及ばない。

織田家の跡継ぎとして、勝家は信長の3男・三七信孝を立てることを主張した。

彼は信孝が山崎合戦に参加したことを、その理由とした。

「山崎合戦は、羽柴の首唱で行われたとはいえ、三七様がお出でであったればこそ、諸人もおおいに

働いた。つまり、三七様は山崎合戦の総大将でおわす。お後継には、三七様こそしかるべし」

と言った。

それに対して、秀吉は

「家の相続は筋目(血統)を第一とするのは古今のならわしでござる。信長公のご嫡子は信忠公、

信忠公のご嫡子は三法師様でござる。ご幼年とは申しながら、まさしきご嫡孫がおわすものを、お立

てせぬ道理はありますまい」

と主張した。

勝家は反対したが、正論であり、勲功第一の主張であり、その主張が通った。



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robin 20230530




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加藤清正 Ⅱ その156

『悔しい勝家』

柴田勝家はくやしさに目もくらむ思いであった。

元来、勝家と秀吉は仲が悪いのです。

北ノ庄城の勝家公
sh.柴田勝家像

勝家は信長の家臣中、第一の先輩であり、第一の身分であった。

武功も数々積んで、首位将軍の地位にある。

ところが近年、秀吉がめきめきと頭を持ち上げてきて、武功を積み、信長の大の気に入りとなった

ので、勝家はねたましくてならないのです。

その秀吉が、早くも弔い合戦をやってのけて、明智を討取ったというのです。

勝家の立場からすれば、くやしいのも当然というべきでしょう。

『3日遅れた!3日遅れた・・・』

勝家はこのままでおけば、秀吉の勢いは益々増大して、ついに信長のあとをついで天下人になるに

違いないと思った。

そうはさせたくない。

『右大臣様のあとは、ご家来の中で第一の身分であった、おれが立たずになんとしよう』

と、思った。

そこで、真っすぐに清州に来て

「右大臣様の跡目を決定し、ご遺領の分配をしないしたい故、お集まり願いたい」

との招集状を人々に出して、集まってもらっていたのです。



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robin 20230529




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加藤清正 Ⅱ その155

『勝家は北陸にいた』

山崎合戦から2週間ほど経った6月27日、柴田勝家は信長の遺臣の主だった連中を、尾張の清州

城に招集して、あと始末と今後のことを相談した。

柴田勝家(1522-1583年)
sh.柴田勝家 03

本能寺の変があったとき、柴田勝家は越中にいて、佐々成政、前田利家、佐久間盛政らの寄騎大名

らと、越後に攻め入る機会をうかがっていた。

急報に接して、弔合戦のために引き上げようとしたが、それまでの上杉勢との合戦に、ずいぶん不

信義のことをしているので、秀吉が毛利氏と和議したように、器用に和議が結べない。

そこで、佐々成政を越中に、前田利家を能登に、佐久間盛政を加賀にとどめて留守させ、ひとり居

城の北ノ庄に引き上げ、兵を整えて、6月16日、越前と江州の境である柳ヶ瀬まで出て来た時、

秀吉の使者にあった。

使者は山崎合戦の次第を報告する書面を携えていた。



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robin 20230528




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加藤清正 Ⅱ その154

『おれが殿様が弔合戦をなさった』

光秀の首を土民らが探し出して、秀吉方に届け出た。

秀吉は、翌々日、三井寺近くでこの話を聞き、取り寄せた。

大阪城二ノ丸の秀吉
to.豊臣秀吉 002

秀吉は百姓らに大枚の金子を与えて立ち去らせた後、首実検をしたが、しばらく凝視した後、ついて

いた細い杖をふりあげ

「日向よ、あろうことか、逆心を起こして、まさしき主君を討ち葬った天罰ぞ!今こそ思い知れい!」

と、ののしりながら、杖で打ち叩いた。

これは弔合戦の際の儀式であり、しなければならないことになっていたのです。

清正は側にいて、ずっと凝視していた。

善悪の応報の迅速さを最も痛切に感じていたのです。

秀吉が主君・信長の弔合戦をおこし、見事に成し遂げたことは、秀吉の喜びはいうまでもないが、家

臣らにとっても、また非常な喜びであった。

清正や福島市松(正則)のような、子飼いで、しかも血がつながっている者にとっては、言いようも

ないほどの嬉しさであった。

「右大臣様のご家来衆数あるなかで、おれが殿様が弔合戦をなさった。誰でもない、おれが殿さまだ」

と、肩を張りたい思いであり

「だから、きっとおれが殿様が右大臣様の後をついで、天下人になりなさるであろう」

とも思い、さらに

「そうなれば、おれも励みさえすれば、大名になれるぞ」

と、目もくらむような気持になった。

清正にも、市松にも、よろこびに緊張した日が続いた。



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robin 20230527




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加藤清正 Ⅱ その153

『光秀の最後』

長い戦乱時代が続く間に、一般百姓まで殺伐な気性になっていたのです。

百姓らは戦争が行われると、必ず錆槍や、錆刀や、竹槍をかつぎ出して、落武者狩りをしたのです。

明智光秀(1528-1582年)
ak.明智光秀

身分のよい武士を生け捕りにしたり、首を取ったりすれば、褒美が貰える。

そのほか具足をはぎ取ったり、刀や槍を奪ったり、金銀をさらったり、いろいろと徳がある訳だ。

光秀の脇腹を突いたのも、こうした百姓のひとりであった。

光秀は重傷ながらも、声を立てたりすれば、かえって敵に勢いをつけることになるので、咄嗟には

「ウッ」と言ったものの、あとは声をのんでこらえた。

「いかがなされました」

と、従騎がたずねると

「いや、なんでもないぞ」

と、痛みをこらえて、わざと平静な声で言って、そのまま馬を進めた。

2、3町、そのまま進んだが、出血は止まらず、痛みは強く、ついに光秀は気を失って馬上から転落

した。

従者らは驚いて、馬を飛び降り、真っ暗な中で抱き起し、介抱した。

はじめて主人が重傷を負っているのを知って、皆びっくりした。

光秀は気を取り直し

「しょせん、存命はおぼつかなく存ずる。わが首を討ってくれい」

と、言って首を打たせた。

家来らは、その首を薮かげの溝の中に隠して、それぞれ落ち失せた。



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robin 20230526




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加藤清正 Ⅱ その152

『明智軍の敗走』

この山崎の戦いは、なかなかの激戦であった。

秀吉方の中川瀬兵衛隊と高山右近隊が、ややもすれば明智勢に押しまくられそうになったので、秀吉

は堀久太郎隊を投じて補強し、自らは織田信孝隊と丹羽長秀隊と一緒に進んだ。

明智光秀の最後
ak.明智光秀 02

この時、高山隊によって山崎の関所が閉ざされていたため、仕方なく淀川べりに布陣していた池田信

輝隊が、明智隊を横撃した。

力を出し尽くしていた明智隊は、乱れだし、敗走が始まった。

秀吉の運の良さであった。

山崎合戦に敗れた明智光秀はどうなったのか、皆さん良く知るところです。

彼はひとまず、戦場近くの勝竜寺城に入ったが、夜がふけるにつれて、心細くなった兵らが逃走が相

次いだ。

「これでは、ここでははかばかしい戦をすることは出来ぬ。一応江州までひらこう」

と、ほんの数騎を従えて、城を脱出し、桂川を渡り、伏見の北から大亀谷を通り、山科野に出ようと

して、その出口である小栗栖村を通った時、道に沿っている竹藪の中から、声もなく突き出された錆

槍が、脇腹を貫いた。



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robin 20230525




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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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