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加藤清正 Ⅱ その364

『三成の策略』

小西は三成に会って、心配を告げた。

三成は色白なきゃしゃな顔をかしげて

「ふむ、ふむ、ふむ」

と頷きながら聞いていたが、

「わしもそれを案じていたところであったが、もう手は打ったよ」

と言った。

石田三成
is.石田三成 003

「ほう、どういう手を?」

と、小西が問い返すと、三成のきゃしゃな顔に微笑が浮かんだ。

「わしらは、殿下のおためを思うて、異国相手の戦争などにならないようにと、色々働いたが、つ

いにこの仕儀となった。これでわしらのしたことがばれて、殿下の怒りをこうむるようなことがあ

っては、つまらん。殿下はお年のかげんで、きつうお気が短くなっておられる。悪うすると、切腹

ものだからの。つまらんわ、ハハ、ハハ」

気楽な調子で、ひとごとのように言う。

小西はじりじりとした。

「それで、どういう手をお打ちになったのです」

「おぬしらがお城を退ったあと、殿下の前に出て、高麗は国王をはじめ家老どもに至るまで、殿下

のご武威のほどはよく承知している筈であります。宗対馬守からもこれはよく申した筈であり、一

昨年参ったあの国の使者どもとっくりと見て帰ったのでございますから、念のためもう一度、宗と

小西とに交渉させたらいかがでございましょうか。軍勢を率いて参っての交渉であれば、案外ころ

りとかしこまるかも知れません。念には念を入れるのが良いと存じますが、如何でございましょう

と、こう申し上げたところ、殿下は、それもそうだ、そのように計らえと申された。されば、明朝、

おぬしらと先鋒の面々のところに、その旨のお指図がまいることになっている」



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robin 20231231




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
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加藤清正 Ⅱ その363

『秀吉に対する畏怖心』

三成は実戦の雄ではありません。

大名という者は武勇の働きがなければならないと考えられた時代であるので、彼もはじめは武将と

しての働きを心掛け、秀吉の関東征伐の時には、自ら請うて上州舘林城と武蔵の忍城を攻めたが、

いずれも失敗しています。

忍城水攻め
水攻め 002

舘林城の時には、背後の沼に仮橋をかけ、そこから攻め込もうとしたが、その仮橋が一夜のうちに

沈んでしまったし、忍城の時には延々たる長堤を築いて、利根川と荒川の水をせき入れて水攻めに

しようとしたが、これまた失敗した。

実戦の雄ではないと、世間から思われるようになっていた。

後年の関ケ原の敗戦も、その原因のひとつはここにあります。

西軍の諸将らが、戦争における三成の指揮能力を信じなかったので、心が一致せず、バラバラな戦

いとなり、敗戦になったのです。

三成は当時の武将の第一の資格である実戦における功績がないというので、大名らは心から重んじ

ていなかったが、分吏的才幹は抜群であり、秀吉の官房長官的位置にいて、その信任は厚かったの

で、恐れはばかられていた。

とりわけ、外様大名の伊達政宗、佐竹義宣、毛利輝元、長曾我部元親、島津義弘などは最も敬重し

ていた。

伊達を除く他の人々が、関ケ原の戦いで西軍に味方したのは、この因縁であった。

しかし、これも三成その人に対する敬意ではなく、秀吉に対する畏怖心からであったことはいうま

でもありません。



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robin 20231230




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>

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加藤清正 Ⅱ その362

『石田三成』

小西は心配を抱いていた。

彼はこれまでの交渉に、三成の命とはいえ、色々と秀吉をあざむいている。

いきなり戦争になっては、今までのことがバレないかと、心配していた。

石田三成(1560-1600年)
is.石田三成 001


小西は城内を退出した足で、石田の屋敷に向かった。

秀吉子飼いの家来らは、この頃ではそれぞれに相当な石高を持つ大名に取り立てられていた。

しかし、清正や福島正則は秀吉の血縁なので、20万石以上になっているが、他の者はみな10万

石台、あるいはそれ以下であった。

石田も正確にはわかりませんが、14、5万石の身代になっていたようです。

彼が近江の佐和山18万石の領主であったことは有名ですが、それは、この3年後、豊臣秀次が秀

吉の怒りにふれて切腹させられた後、その旧領の一部を貰ってからのことで、この当時は正確に何

万石の身代であったか、どこが居城であったのかわかりません。

しかし、秀吉の書記官長的役職にいたのだから、近畿地方か、播州地方であったのでしょう。



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robin 20231229




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>

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加藤清正 Ⅱ その361

『心から心配の清正』

「恐れ入る」

小西は受けた。

相手が口につけるのを待って

「先刻、拙者は妙法の旗を拝受しましたが、貴殿は何を旗となさるつもりでござるか。前古未曽有

の異国征伐のお先手をつとめ申すこと故、何かご工夫がなくてはかなわぬところと存ずるが・・・」

とたずねた。

宇土城の小西行長公
ko.小西行長 003

これも他意はなく、心から小西のために心配したのです。

しかし、小西はむっとした顔になり、グッと杯を空にすると

「ご返杯」

と、返し、酒をついで、それから答えた。

「拙者は元来、堺の町人、薬屋でござる。拙者の家から売り出す薬はすべて赤の日の丸をつけた袋

に入れています。されば、その袋を大きくこしらえて旗といたしましょう。拙者の家の薬は日本国

中はおろか、高麗にも売り出しています故、高麗人どもにもこの袋紙はよく知られているはず、ア

ハハ」

と笑った。

冗談めかした言葉ではあるが、芯にトゲがある。

親切で言ったことに、こう返答されて、清正はムッとした。

長いあごひげのある顔を、そちらにねじ向けて、何か言おうとし時、相手は

「しからば、拙者はこれにて。貴殿はごゆるりと。お先に失礼いたす」

と言って、立ち上がって、出て行った。

そのうしろ姿を、清正は強い目でにらんでいた。

「やつは、おれがやつの出身が町人であるのを軽蔑したと思ったのであろうか。おれは心から案じ

ていたのじゃに・・・」

と思っていた。言いようのないほど不愉快であった。



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robin 20231228




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加藤清正 Ⅱ その360

『小西に気遣う清正』

小西には漆黒の駿馬一頭を庭に引いてこさせ与えた後、やはり軍令状と軍書一巻を与えた。

清正は喜びの興奮がまだ残っていて、しきりに杯をあげたが、ふと気がつくと、小西の様子が物思わ

しげだ。

小西行長(1555-1600年)
ko.小西行長02

係りの者に勧められても、杯を口もとにささえたまま、思案にふけっているように見える。

清正は、自分が一軍の心の拠りどころである旗、しかも織田右府家の宝旗であり、殿下の吉例ある旗

をいただいたのに、小西は名馬であるとはいえ馬に過ぎないものを貰っただけなので、気が鬱するの

であろうと思った。

「摂津殿」

と、清正は声をかけた。

「なんでござる」

行長はふりかえる。

「貴殿、何か思いわずらっておいでのように見受けますが、ご心配なことがござるなら、お聞かせ

願いたい。隣国ではあり、またこの度は異国御征伐にともにお先手を仰せつかったのでござる。人

ごととは思われませぬ。申し聞けいただきたい」

他意はなかった。

自分が喜びと幸福感にあふれているだけに、心から相手を気の毒に思ったのです。

しかし、小西は笑った。

「そう見えますか。別段に思いわずらっていることはないのでござるが」

「それならよろしいが・・・」

清正は杯を干して

「一杯献じましょう」

と小西にさした。



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robin 20231227




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加藤清正 Ⅱ その358

『吉例の旗』

信長が最初に一向宗の本山である大坂石山城を攻めた時、この旗を押し立てて陣を張ったところ、

ある日、城か方から奇襲をくらい、この旗を奪われてしまった。

それを取り返したのが前田利家の甥・慶次郎であったという。

前田慶次郎(1533-1605年)
ma.前田慶次郎(利益)

慶次郎は江戸時代の初期まで生きていて、洒脱と奇行と気節をもって日本快男子中の第一人者と

なった人物ですが、石山合戦の頃は浪人として織田家からも前田家からも離れていた。

戦さ見物に来て、この旗が城方に奪われたのを見て、奮戦して取り返し、織田家方の部将に渡して

おいて、どこかに行ってしまという。

ともあれ、織田家の宝旗なのであるが、秀吉が最初に中国方面軍司令官として、播磨に行くとき、

信長はこれを秀吉に下賜したのです。

秀吉は旗を開いて清正に見せた後、くるくると巻いて

「主計、汝(われ)は法華の信者だ。これをつかわす故、立てて行け。汝も覚えていよう。この旗

はおれが最初に播州に行くとき、右府様がおれにくだされたものじゃ。吉例の旗よ。おれが運にあ

やからがよいぞ」

と言って、差し出した。

ありがたさに、清正は涙がこぼれてきた。いざり出て、両手で受けた。

古びて柔らかい絹の感触が手のひらに感ずるとともに、力が泉のように全身にみなぎると覚えた。

「妙法の加護と、御威光と、御運勢とすべて確かに拝受いたしました。」

と言うと、秀吉も大音声で叫んだ。

「たしかにつかわしたぞ!それ!」

その後で、兵どもに示す軍令状と軍書一巻を与えた。



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robin 20231226




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加藤清正 Ⅱ その357

『織田家の軍旗』

秀吉は身をゆすって、からからと笑った。

「小気味よいことを申す。あっぱれじゃぞ」

と言って、近習の者をかえりみると、近習らは広ぶた2つを持ちだして来た。

清正の旗
ka.加藤清正の旗印 2

秀吉はそのひとつからつかみ上げたものをさらさらと繰り広げた。

黄絹に太くおどり跳ねるように一行の文字が書かれている。

旗の文字は「南無妙法蓮華経」と書いてあった。

旗は古びており、汚れており、文字の墨はかすれて消え消えになっているところもあるが、清正は

この旗のことを良く知っている。

これは織田家の宝となっていた「妙法の旗」である。

信長は徹底的な無信仰者であったが、織田家は日蓮宗の信仰あつい家である。織田家の先祖がいつ

の頃か、この旗をつくって、それを第一の軍旗としていたのです。



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robin 20231225




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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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