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加藤清正 Ⅱ その393

『異国との戦さ』

土民に尋ねながらの、徳五郎の説明は続く。

申碚は智略には欠けるところがあるが、恥を知る武将ではあった。

味方が今や潰れ立とうとするのを見ると、死を決し退勢をめぐらそうとした。

清正の旗印
ka.加藤清正の旗印 2

馬に飛び乗り、麾下の兵を率いて、日本軍めがけ、太呼しながら突撃したが、麾下の兵は途中から

四散していまい、彼ひとりに銃弾が集中し、馬は傷ついて倒れ、彼もまた数創を負うた。

到底もう突撃はできない。しかたなく、引き返し、川に投じて死んだ。

8千の兵の多くは、日本軍に追われて川に陥り、溺死する者が多かったという。

不甲斐ないのは、大将軍李鎰であった。

尚州での敗戦の恥をすすごうともせず、ここでもまた素早く逃走したという。

清正は、徳五郎に問われて鳥が鳴くような言葉で、早や口に答える土民らの眼が薄く涙ぐんでいる

のを見た。

自国の軍隊の不甲斐ない敗戦を悲しんでいるか、李鎰将軍の恥を知らない行いをいきどおっている

か、どちらかに違いないと思われて、同情せずにいられなかった。

今さらのように

『これは異国との戦さなのだ。日本の大名同士の戦さではないのだ』

という感慨が切であった。

清正は土民らにそれぞれ銭を与えて帰した。



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robin 20240131




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
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加藤清正 Ⅱ その392

『混乱の朝鮮軍』

朝鮮軍は、あわてふたむいて軍の配備にかかったが、その翌日になっても日本軍の姿が見えなかっ

たので、申碚将軍は立腹して、前日報告した将校を捕らえ

加藤清正公具足
ka.加藤清正具足

「無形の妄言をして、人心を惑乱させて罪は軽くない、斬罪に処する」

と宣言して、斬首したが、そのとたん前線から急使が来て、日本軍はすでに6kmの地点に迫って来た

と報告した。

申碚は色を失いながらも、兵を率いて出陣したが、日本軍は両道に分かれて、風雨の襲来のように押し

寄せて来て、銃を乱発した。

朝鮮軍には銃はないのです。

恐れ怯えて、滑走の寸前となった。



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robin 20240130




<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>

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加藤清正 Ⅱ その391

『小西の武勇』

「小西は、弁口才智は優れた男だが、武勇のほどは俺の片腕にもおよばぬ。天草では一揆に手

こずって、どうすることも出来なかったではないか。おれが助けてやったればこそ、鎮定できたが、

そうでなくば天草どころか、彼が領内全部が蜂の巣をつついたようにさわぎ立ち、佐々が二の舞と

なったに違いないのだ。その小西が武勲を立て、おれが碌々として武功らしい武功も立てられない

のは、ひとえにあの3日の遅れのためである」

と、小西の背約をいきどおらずにいられない。

宇土城の行長公(宇土城登城記は「こちら」です。)
ko.小西行長 004

ともあれ、できるだけ急いで追いかけることにしたが、敵地であるから、向こう見ずの疾走はいま

しめなければならない。

絶えず斥候を出して、前後左右を見定めながら進まなければならない。

まして大軍のことが。思うように進めない。

翌々日、斥候と一緒に出た徳五郎が土民数人を連れて帰陣して、報告した。

「きのう、忠州というところで、小西軍がまた戦さして、勝ったちゅうことですばい」

清正は木陰に床冗をすえさせ、それにかけて詳しく聞いた。

徳五郎は、連れて来た白衣の朝鮮人らにいちいち問いただしながら、語った。

忠州には、付近の諸郡から集まった兵がおよそ8千余人あった。

李鎰とならんで、高麗の将軍中の双璧と呼ばれた申碚が大将軍となっていた。

そこに、尚州で敗れた李鎰も来たので、両人はおもだった将校らを集めて、防戦の軍議を開いてい

た。

その軍議の席に、ひとりの将校が駆け込んで来て

「日本軍はすでに鳥嶺を越えて進軍して来つつあるとの、確かな話を聞いて来た」

と報告した。



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robin 20240129




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加藤清正 Ⅱ その390

『尚州の戦い』

小西軍がここに来るまでに、尚州で相当な戦闘をして、朝鮮軍を撃破し、京城から大将軍として来

た李鎰は、鎧をすて、着物を脱ぎ棄て、裸になって、ここを通って、なお北走して行ったことも聞

いた。

甄萱の石垣
ke.甄萱の石垣

「その大将は、一旦ここに留まって、都に敗戦のことを書いた手紙を使いに持たせてやって、ここ

の先きに鳥嶺ちゅう要塞がありませけん、そこに兵を集めて防ぐ工面したそうですばってん、すぐ

さま臆病風に吹かれて、逃げ出したと申しますばい」

と、徳五郎は住民から聞いて報告した。

尚州で小西軍が敵の大将軍李鎰を痛破し、李鎰が裸になって敗走したということを聞いて、清正は

無念はいやまさるばかりであった。

小西を信じて壱岐で連絡を待ち、待ちぼうけを食わされたために、3日も上陸がおくれ、小西の後

塵ばかりを拝しなければならないのが、悔しくてならなかった。



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robin 20240128




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加藤清正 Ⅱ その389

『乱暴しないと評判』

慶州は城が破壊されただけで、市街の損害は皆無であった。

市民らは非難もしないで、面白い見ものと思っているらしく、悠々とした様子で見物に来る。

のたりのたりと歩く牛に乗って来る者もあれば、杖をつき、白く長いひげを風に吹かせて来る老人

もいた。

清正クン
ka.加藤清正 0001

慶州から氷川に向かった。

この間には川があり、山岳があるので、2日かかって、23日に氷川に着いた。

ここには城塞があって兵が守備していたが、ほんの形式的に防戦しただけで逃走した。

戦はここが最後であった。

安東、新寧、義興、軍威、比安と、道筋にはずっと城塞あったのだが、いずれもその近くまで行く

と、使者が来て、降伏を申し入れた。

清正軍が戦えば勇猛鬼神のようであるが、軍規厳正で、少しも乱暴しないことが評判になったから

であった。

比安から行くと豊津も竜宮河という川がある。

末は洛東江という大河になって釜山近くの金海湾に注ぐ。

これを渡って、竜宮を通って、聞慶に来ると、3日前にここを通って小西軍が通過したことがわか

った。

聞慶の城は焼けていた。

小西軍の近づくのを聞いて、城兵自ら焼いて逃走したということであった。



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robin 20240127




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加藤清正 Ⅱ その388

『軍規は厳正であるべき』

「その方、道案内をつとめてくれるよう。十分に礼はとらせる」

「へぇ、ばってん、あまりよう覚えとりそうになかとですが」

「かまわんぞ、大体の道筋さえわかっておれば、その時々にその土地の者に聞けばよい。その方、

当国の言葉が自由に使えるではないか」

「そりゃ使えますたい。なんちゅたかって、35年ですけん」

と、自慢顔になった。

熊本城の清正公
ka.加藤清正像 002

あまりかしこい男ではなさそうである。とりあえず銀子を与えると、一層よろこんだ。

清正軍はなお進んで、翌日は慶州城を陥れた。

慶州は新羅時代の旧都です。

遺跡や由緒ある寺院などが多く、市街も落ち着いた美しさをもっている。

清正は特に将士に、軍令を厳守するよう戒告した。

「犯す者は、有無を言わず斬る」

とまでふれた。

清正は、戦場の兵士の心理をよく知っている。

常に死の危険にさらされ、いつ死ぬかわからないと覚悟している兵士らは、よほど出来た人間でない

かぎり、心が乱れている。

一時間の後には死ぬかも知れないと思っている身は、現在は生きていることの確信をつかみたい。

この心理が女を犯させる。掠奪させる。完全なもの、美しいものに嫉妬を挑発される。

この心が破壊させる。破壊したとて、何の利益ももたらさないことなのに。

だから、軍紀は酷薄なまでに厳正であるがよいのです。

軍旗に違反する温情は、とめどもなく軍を堕落させる。

清正はこれをよく知っているのです。



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robin 20240126




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加藤清正 Ⅱ その387

『徳五郎を道案内に』

徳五郎は語っているうちに、だんだん日本語を思い出したのでしょう。話しぶりもしっかりとして

きた。

35年前といえば、まだ足利将軍の時代であり、織田信長さえ尾張の小大名に過ぎなかった。

清正自身もまだ尾張中村の小童だった。

加藤清正公
ka.加藤清正

徳五郎はしきりに日本のことを聞きたがった。

今の将軍は誰か。日本の大名たちはまだ、明けても暮れても戦争をしているのか、自分のいる頃の

平戸の御領主は松浦様であったが、今でもそうであろうか。

などと尋ねる。

清正はいちいち、それに答えてやった。

相手は驚いて、一語ごとに嘆息した。

やがて、清正は言った。

「そなた、当国に35年もいるのであれば、当国の地理などよくわきまえているであろうな」

「少しは存じていますばってん、こぎゃん貧者なもんですから、あまり方々に行きまっせん。よう

は知らんとです」

と、いかにも心細そうに言う。

しかし、清正は喜んだ。

釜山に上陸して以来、各地で案内者を雇ってやっとここまで来たが、いずれも次の城塞に行くくら

いの案内しか出来ない者ばかりであったのです。

たとえうろ覚えにしても、一度京城まで行ったことがある上に、元来日本人とあっては、大いに都合

が良い。

通訳にも使える。



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robin 20240125




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Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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