清盛VS義朝の「平治の乱」

『清盛VS義朝の最終決戦となった平治の乱』

1159年(平治元年)12月9日、公家・藤原信頼と清和源氏の源義朝とが結託し、京都で兵を挙げる。

当時、信頼は後白河上皇の側近でしたが、同じ側近の藤原信西と対立関係にあった。

この信頼が右大将に就任しようとした時、信西がこれを阻止しています。信頼はこの出来事がきっかけで、

信西をひどく憎むようになったという。

また、義頼は1156年の“保元の乱”で活躍し、乱後は敵対した源偽義を自ら斬りますが、その後は清盛

よりも格段に冷遇されます。

以上のような理由で、信西や清盛を苦々しく思っていた信頼と義朝は、12月9日に信西らの打倒を掲げ

て挙兵したのです。

六波羅蜜寺
この付近に「六波羅殿」と呼ばれた平家一門の屋敷があったそうです。
ro.六波羅蜜寺 001

この当時、清盛は平重盛らと僅かな家臣を伴って紀伊熊野へ参詣に趣いていた。つまり、軍事面で侮り

難い存在の清盛が今、京都にいなかった訳です。

信頼や義朝はこういった状況を千載一隅のチャンスと捉え、この時期にことを起したのでしょう。

開戦時、義朝は京都市中にあった後白河上皇の御所・三条殿へ放火し、後白河上皇や二条天皇を幽閉

します。

さらに逃亡を図る信西を追跡し、遂に討ち取っています。

熊野で変事を知った清盛は、一時は鎮西(九州)への亡命も考えますが、幸いにも地元の湯浅宗重らの

支援が得られたことから、信頼に偽りの名簿(誓約書)を提出して油断させ、無事に本拠である京都・六

波羅へ帰還しています。

また、清盛は御所の官吏などと密かに連絡をとり、二条天皇を幽閉先から救出し、後白河上皇は自ら仁

和寺へ脱出します。

これを確認した清盛は、12月26日、御所に籠城する源氏方を誘き出すべく、先鋒の重盛らに意図的な

退却を命じます。

そうとは知らない源氏方は重盛らを追撃しますが、五条大橋付近で平氏方に行く手を阻まれます。驚く

ことに、平氏方は橋を解体し、用材でバリケードを築いていたのです。

源氏方の義朝は奮戦しますが、摂津源氏の源頼政が離反したことなどもあり、六条河原の戦いで清盛

が率いる平氏方に大敗します。

乱後に信頼が斬られ、義朝も翌年に横死を遂げたことから、勝者である清盛は従来に増して中央政界

で勢力を伸ばすことになります。

sakura 20120617 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
前回の正解: 豊前国
豊前国の領域は福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中津市・宇佐市)にまで跨っていました。

≪本日の問題≫


                               <参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
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さくらちゃん、もうすぐ一歳なんですね。おめでとう御座います。
艶も良く元気そう♪
そういえば、,足はすっかり良いのかな?

Sa-ya さま

こんにちは、

ありがとうございます。
チョット時間ありますが、来月で1歳になります。
同じく、7月にはpiglet一家の長老“sa-ko嬢”が5歳になります。

> 艶も良く元気そう♪
> そういえば、足はすっかり良いのかな?

はい。
モリモリ食べていますので、お蔭様で元気の塊で走り廻って
います。
明日、丈夫そうなsakuraの御足をアップしてみますネ。
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