前田利家 その52 『慶長の役』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【慶長の役】

外征中の中で、ただ一人だけ忠実に、剛直に、朝鮮戦線において秀吉の意図の実現に努力していた加藤

清正が、“現地に留めておいては、ためにならぬ和平の妨害者”

という嫌疑をかけられて、本国召還の命により帰国した。

秀吉はこの嫌疑を審査して真相を究明しようともせず、清正に謹慎を命ずると、面会することすら許さなか

った。

“太閤はもはやお天下様ではなくなられた”

利家はその感を益々深くした。

天下を治めるからこそ天下人であり、お天下様である。今の太閤は、ひたすら“お拾”を溺愛するだけで、

天下のことは二の次、三の次にすぎない状態であった。

熊本城の清正公
ku.熊本城 20110204 001

国政を顧みようとしない老権力者に天罰が下されたかのように、7月3日に京畿地方に激しい地震が発生

した。

その大混乱の最中、誠実な忠臣にして剛直の猛将でもある加藤清正が、真っ先に伏見城に駆けつけたこ

とにより、秀吉からかねての罰が赦免されています。

小西行長らによる明国との和平工作によって、大坂城で冊封使を引見した秀吉は、使節が持参した明国

王子の勅を音読みさせた。

「なんじを封じて、日本国王となす・・・」

その文言を聞くや、秀吉は激怒して冊封すなわち国書を床に投げつけ、使節を追い返してしまった。

再び出兵の命が発せられた。いわゆる「慶長の役」で、こんども加藤清正、小西行長が先鋒です。

1597年1月13日、加藤清正の朝鮮上陸をもって、再出兵の軍事行動は始まり2月になると宇喜多秀家、

毛利秀元を大将とする諸将の部署が定められ14万におよぶ大軍が渡海した。

秀吉自身は、今回は名護屋城の大本営への出馬もせず、大坂城と伏見城の間を往復しながら、外征軍

へ命令を発していた。

情勢は秀吉が渡海して作戦指導をしない限り、戦線も膠着状態で、占領地域だけを確保するだけで精一

杯というところであった。

それでも秀吉は外征の武将たちへ、しきりに朱印状を与えて

「来年こそは渡海して、大明国まで一気に征伐してみせるから安心せよ」

などと激励を送るばかりであった。

“太閤が一石米を買いかねて、きょうも五斗買い(御渡海)あすも五斗買い”

巷に、そんな落首さえ行われるくらいであった。

sa-ko 20120626 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 両方から
前田利家は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、傍輩衆の、蒲生氏郷、宇喜多秀家、浅野長政、毛利秀頼らから慕われていた。
また、加藤清正・福島正則らに代表される武断派と呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後の石田三成や小西行長らの文治派と武断派との争いの仲裁役として働いた。
なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われます。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
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