“下克上”とは、ルール無用の仁義なき戦い?

『 “下克上” とは、ルール無用の仁義なき戦い?』


“下克上”という言葉が生まれたのは、室町時代のことです。

室町幕府は足利尊氏が諸大名に利を与えて天下を取ったため、諸大名の勢力が強大で幕府の威令が届か

ず、武家の習わしは荒果ててしまった。階級制度も崩壊し、社会の秩序が大いに乱れた時代でした。

この動乱のさなか、“下克上”の傾向は一般庶民にもおよび一介の素浪人から相模一国の主となった北条早

雲や、微賊から将軍をも自由に操る地位を確立した松永久秀、油の行商人から美濃一国の主となった斎藤

道三など、下級階級から権力者に上りつめた“成り上がり”がぞくぞくと登場した時代です。

北条早雲(1432-1519年)   斎藤道三(1494-1556年)
ho.北条早雲       sa.斎藤道三・小

彼らはいかにして権力を手にしていったのか。

56歳にして一城の主となった北条早雲は、相模一帯を手中に収めるため、武士の大半がお家相続争いに

駆り出され、空国状態になっていた伊豆を襲い、足利政和の長男・茶々丸を倒して伊豆を盗った。

この戦いで出兵に大義名分を必要とするという武家のルールが破られ、戦国乱世の幕が開いたのです。

さらに早雲はその後、小田原城を襲う際も、鷹狩りを装って勢子に変装した兵士を敵の領内に密かに進入

させるや否や、奇襲をしかけた。

いわば“だまし討ち”で城を乗ったのです。

このように“下克上”の乱世にあっては、巧みに権力者に近づき謀略によってその権力者を抹殺、その地

位と権力を奪うという、ルール無用の仁義なき戦いが展開された。

その策略は主に

①内紛に乗じて敵を破り国を盗る

②上級者を倒してその権力を盗る

③恩人や親兄弟に関わらず邪魔なものは殺すか追放する

といった非道なものでした。

ただし“成り上がる”には権力者に擦り寄り、信頼させるだけの才覚があったことも事実です。

sakura 20120708 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 恋愛結婚
秀吉と“ねね”(高台院)は、政略結婚が普通であった当時としては珍しい恋愛結婚だったといわれます。
2人は「野合で結ばれた」と書かれており、これは縁談などが全くない恋愛だったことを意味しています。

≪本日の問題≫


                      <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
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