前田利家 その62 『利家の遺言』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【利家の遺言】

今日の記事は長文になりますが、利家の遺言状に彼の全てが出ていると思いますので、お付き合いください。


3月の中旬になって一時的に小康を回復した利家は、有名な遺言状を正室“まつ”に口述記させています。

思慮深く堅実な心がけの戦国武将であったことを示す周到な遺言状ですので全文を記してみます。

前田利家(1538-1599年)
ma.前田利家 001

一、自分の病気はいよいよ回復がおぼつかない。近々死ぬかも知れない。死んだら長持に入れて金沢へ

  送り野田山に墓を造って葬って欲しい。死骸といっしょに女や子供は加賀へ連れていくように。


一、2男の孫四郎利政を金沢へ帰らせ金沢城の留守役にせよ。利長、利政兄弟の下に兵力は1万6千ほど

  有るだろうから、そのうち8千は大坂に詰めさせ、後の8千は金沢に居る兵力は利政の命令で動くように

  せよ。自然のなりゆきで大坂にいざこざが生じ秀頼様へ謀叛する者がでたら、利政は国もとの8千の兵

  を連れて上洛し、一手になって働くように。金沢の留守は藤原出羽一孝と利長の腹心の者一人を添え

  るように、出羽は子供のときから召す仕え心はよくわかっている。頑固なところもあるが律儀者だから城

  を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦ではまだ若年ながらよく働いてくれたので、自分の弟

  ・良之の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にした

  ので青山佐渡吉次を聟にしたらよかろうと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。


一、利長に子もないことであり、兄弟といっても孫四郎ばかりであるから、義理の悪いことはしないと思うが、

  念のため孫四郎には大納言つまり自分同様に父とも兄とも思うように誓詞を書かせてあるからご覧にい

  れる。今後子供とも弟とも思って万事行儀の良くなるように意見するがよい。


一、自分の隠居料として貰っている加賀石川・河北および越中氷見郡の知行は利長へ差し上げる。能州

  口郡の1万5千石は利政へつかわしたがよかろう。


一、判金千枚、脇差3振、刀5腰に札を付けておいたから利政につかわしてくれ。そのほかは一々書面に

  書いてあるから残らず利長へ譲る。


一、金沢にある金銀諸道具はみな帳面に書いてあるから利長に譲るが、死んでから3年間は加州に帰っ

  てはならない。そのうち家康との対立も解決するであろう。


一、利長、利政の兄弟に申し付ける。第一は合戦の場合は敵の畔でもいいから踏み込んで戦え。他国か

  らの押し込みは草の根の陰たりとも許してはならない。信長公は少人数でも敵地へ踏み込んで勝利

  をえられた。


一、奉公人は20年ほど召し抱えた者は、その家の作法をよく心得ているから本座者すなわち譜代の家臣

  として扱ってもよい。利長の兵士が佐々内蔵助成政と戦ったとき、または関東松枝八王子の合戦で仲

  裁に入ったり、または攻めたてた時分も、新参でも過分の知行をやって呼び寄せて家臣としたが、本座

  者には劣っている。我が家ばかりでなく信長公や尾張一円を手に入れた折り以来本座者は新参に越さ

  れたことがない。万事本座を大切にせよ。人間は生まれつき出来、不出来はあるものだが、もうその方

  ・利長は加賀・能登・越中3ヵ国の主であるから万事によく気を配るべきだ。近習にえこひいきのしない

  者4・5人に誓紙をした上で召し抱えさせ、外様でも家系のよい者を探して召し抱えることは良いことだ。

  その上新参は家の威勢のよいときは奉公するものだが少し傾くと自分の都合のよい方へかたよる者だ。

  本座者は平常ぶつぶつ言っていてもいざというときは御家を大事に思い逃げるようなことはない。

  この儀は申すに及ばないことだが申し聞かせておく。信長公死なれたとき、安土から家内を連れて逃げ

  た道々でも本座新参の区別が良くわかったろう。その時の心持を忘れてはならない。


一、武道ばかりを本とするのはいけない。文武二道の侍は少ないが分別のよいものだ。見たり聞いたりして

  探せ、新参にても情をかけて召し抱えさせた方がよい。余も一代本座に処置し。合戦のときは先手にさせ

  てもついに落ち度がなかった。第一諸侍の生活ができるよういたわって使ったら良い。


一.長九郎佐衛門連流竜と高山南坊すなわち切支丹大名で高槻城主であったが秀吉の忌諱にふれ茶人と

  して利家の客分になっている高山右近は、他家に目をくれず余一人を守り律儀人であるから隠居しても

  少しずつ茶代を遣わし情をかけてやってよい。片山伊賀は身上よりもぜいたくする者であるから成り行き

  では謀叛することもあろう。旨いことを言っても油断してはいけない。徳山五兵衛は目をくれて余にそむき

  知人になっていると聞いている。しかし余が存命中は叛くこともあるまいが死んだら必ず叛くから左様に

  処置しておくといい。山崎長門は善い者で成政との戦いでも鳥越峠をよく攻めた。

  しかし、片意地な武者だから侍30・40の頭は務まるが一軍の将には向かない。


一、村上豊後と奥村伊予は子供に家を渡し楽をさせてある。しかし、余が死んでも一層情をかけられ髪もそ

  らされるようなことはせず、祝い事などのときはこの両人家の老臣として取り扱うようにしたらよい。

  その上大事な合戦すなわち大坂出陣のようなことがあったときには兵士千人ほどあて預けておき身辺を

  守らせよ。伊予はひところ、というのは荒子城明け渡しのとき余と仲たがいし浪人であったが敵首を取っ

  て帰参した者だ。

  その上内蔵介との取り合い、つまり末森合戦のとき末森城を預けたが良く持ちこたえて忠節をつくした。

  関東陣でも先陣として落ち度なく戦った。豊後は江州金ガ森で佐久間玄蕃(盛政)と一緒に居合わせて

  一番乗りをやり、その上よき首を取り信長公のお目にかけた。大坂大森口合戦のときも余の傍に居てか

  なりの手柄を立てた。

  長篠合戦のときは余の眼前で太刀打ちをし、名のある者の首をとりおった。このことは常々その方へも

  話した。越中佐々内蔵助と合戦のとき、末森後巻の先手をさせ、また越中蓮焼きのときも度々先陣をい

  たし忠節をつくした。別にしてこの者に情をかけられるのは最ものことだ。岡田長右衛門は算用の上手

  な者で身分不相応とは思うが、なじみ深い者だから隠居料として2千石をやっている。ただし貴殿の考え

  でいかようにも取り扱ってよかろう。

  次に青山佐渡に魚津城を預けてあるが、この者は律儀者だから情をかけられてよいと思う。新谷信濃へ

  中川宗半娘つかわすかどうかと娘しょう姫が言っているが、貴殿の考えひとつだ。


右の条々心つきたることであるが口上には後先忘れたこともあるから、書きつけにした。

余が死んだら心持ちをしっかり持ってくれ。

以上。

慶長4年3月21日

  筑前利家

羽柴肥前守殿


羽柴肥前守とはもちろん前田利長のことです。

平生から用心深く緻密で実際に即応した利家の心構えが、そのまま読み取れることができます。

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                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
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