武者としての心得とは?
『武者としての心得とはいったいどんなもの?』
武者としての心得、つまり合戦に当たって槍一筋を携え馬にも乗らず、従者も連れず、体ひとつで突撃に
あたって功名を競う武者たちの心得こそ、戦国時代を生きた無数の男達の姿を彷彿させるものでしょう。
彼ら下級の武者は、端武者、葉武者、羽武者とも呼ばれ、雑兵ではあるが先手の足軽衆よりは格上とさ
れた者でした。
彼らは、まず何よりも身命を軽んじることを第一とし、次に命令を破ってはならない、と説かれている。
これは、いまだ戦機が熟さぬのに血気にはやって、自分の功名を求めて勝手に暴走することを戒めたも
のです。こういう抜け駆けは、しばしば全軍を危険に陥れたり、合戦の駆け引きを狂わせてしまう。
しかし、ひとたび突撃の下知がくだれば、真っ先駆けて一番槍、一番首、陣取り組み打ち分捕りに獅子
奮迅の働きをなし、命を惜しまず戦い続けるのが、端武者の本分とされた。
もうひとつは、一軍の将、あるいは武将、大名としての心得です。
こいった心得は、武将の父から子へ家長から一族、家臣へ残された数多くの教訓状、家訓、遺訓となって
残されています。
徳川家康(1543-1616年)

戦いを起すのはよくよくのことであり、自分自身や自らの一族、多くの家臣や家臣の一族、領国の民百姓、
さらに敵国の中まで責任を負うのだから、そうみだりに兵は動かせない筈です。それを忘れ、版図拡大に
熱中し、かえって自分の身や国を滅ぼした例は数かぎりない。
こういう将たる人物の器を備えていたのは、長い日本の歴史でもそんなに多くはない。主だったところでは、
源頼朝、足利尊氏、武田信玄、徳川家康などでしょう。
こういった将器を持った武将の下では、たとえ逆賊の汚名を着ても部下は生死を共にし、身代わりとなって
討ち死にするものです。
まず、武将たる者の心得として、第一に挙げられるものは、それぞれの人物を見る目を養い、家柄ではな
く、本人の実力や器量、得手不得手によって、適材を適所に配置すること。そして賞罰を正確、公正にし、
ときとしては慈悲をかけることも必要です。
また領民の暮らしや国内の状態にも絶えず配慮し、有能正直な家臣に領国内を巡視させ、人々の不満や
訴えを聞く。
また、武将が自ら身をやつして直接領国内を歩き回り、役人の不正があれば正しく刑罰に処すなど、下意
上達を心がける。
また合戦に当たっては、敵の強さや弱点、敵の行動パターン、峠や大きな河といった地理上の特徴、経済
の様子など、さまざまな情報を味方に徹底させておく。
こうしておけば、往々にして不足の事態が起きる実際の作戦にあたっても、個々の軍勢が状況に応じて柔
軟に対応することができます。
勝敗では六分か七分の勝で十分とし、八分の勝ちは危うく九分、十分の大勝利は、かえって味方が大敗を
喫する下地である。という。
このように勝ち過ぎないように心がけるのは、将来良い結果を招かないことを、器の大きい武将は体験から
知っていたのです。
長野・龍岡城に行ってきました。別途、記事にしたいと思います。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:本多忠刻
千姫は、1616年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚しています。
翌年には、本多家が播磨姫路に移封になり、姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになっています。
1618年には長女・勝姫、1619年には長男・幸千代が生まれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
武者としての心得、つまり合戦に当たって槍一筋を携え馬にも乗らず、従者も連れず、体ひとつで突撃に
あたって功名を競う武者たちの心得こそ、戦国時代を生きた無数の男達の姿を彷彿させるものでしょう。
彼ら下級の武者は、端武者、葉武者、羽武者とも呼ばれ、雑兵ではあるが先手の足軽衆よりは格上とさ
れた者でした。
彼らは、まず何よりも身命を軽んじることを第一とし、次に命令を破ってはならない、と説かれている。
これは、いまだ戦機が熟さぬのに血気にはやって、自分の功名を求めて勝手に暴走することを戒めたも
のです。こういう抜け駆けは、しばしば全軍を危険に陥れたり、合戦の駆け引きを狂わせてしまう。
しかし、ひとたび突撃の下知がくだれば、真っ先駆けて一番槍、一番首、陣取り組み打ち分捕りに獅子
奮迅の働きをなし、命を惜しまず戦い続けるのが、端武者の本分とされた。
もうひとつは、一軍の将、あるいは武将、大名としての心得です。
こいった心得は、武将の父から子へ家長から一族、家臣へ残された数多くの教訓状、家訓、遺訓となって
残されています。
徳川家康(1543-1616年)

戦いを起すのはよくよくのことであり、自分自身や自らの一族、多くの家臣や家臣の一族、領国の民百姓、
さらに敵国の中まで責任を負うのだから、そうみだりに兵は動かせない筈です。それを忘れ、版図拡大に
熱中し、かえって自分の身や国を滅ぼした例は数かぎりない。
こういう将たる人物の器を備えていたのは、長い日本の歴史でもそんなに多くはない。主だったところでは、
源頼朝、足利尊氏、武田信玄、徳川家康などでしょう。
こういった将器を持った武将の下では、たとえ逆賊の汚名を着ても部下は生死を共にし、身代わりとなって
討ち死にするものです。
まず、武将たる者の心得として、第一に挙げられるものは、それぞれの人物を見る目を養い、家柄ではな
く、本人の実力や器量、得手不得手によって、適材を適所に配置すること。そして賞罰を正確、公正にし、
ときとしては慈悲をかけることも必要です。
また領民の暮らしや国内の状態にも絶えず配慮し、有能正直な家臣に領国内を巡視させ、人々の不満や
訴えを聞く。
また、武将が自ら身をやつして直接領国内を歩き回り、役人の不正があれば正しく刑罰に処すなど、下意
上達を心がける。
また合戦に当たっては、敵の強さや弱点、敵の行動パターン、峠や大きな河といった地理上の特徴、経済
の様子など、さまざまな情報を味方に徹底させておく。
こうしておけば、往々にして不足の事態が起きる実際の作戦にあたっても、個々の軍勢が状況に応じて柔
軟に対応することができます。
勝敗では六分か七分の勝で十分とし、八分の勝ちは危うく九分、十分の大勝利は、かえって味方が大敗を
喫する下地である。という。
このように勝ち過ぎないように心がけるのは、将来良い結果を招かないことを、器の大きい武将は体験から
知っていたのです。
長野・龍岡城に行ってきました。別途、記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:本多忠刻
千姫は、1616年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚しています。
翌年には、本多家が播磨姫路に移封になり、姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになっています。
1618年には長女・勝姫、1619年には長男・幸千代が生まれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
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S さま
こんばんは~
いつもありがとうございます。☆
> 学生時代は遊びまわった阿蘇 とのコメントで~♪
> 地元~若しくは九州の方でしたか~?
出身が熊本ですよ~^^
貧乏な学生でしたが、車がありましたので夏は涼しい
阿蘇によく遊びに行っていました。
無料温泉もたくさんありましたし・・・。
こちらの記事をご覧ください。
熊本の自慢をしています。♪
http://piglet01.blog109.fc2.com/blog-entry-50.html
> きょうのクイズは「小牧・長久手の戦い」
> 以前 15年ほど前ですが 長久手に住んでまして
> 近くでしたからここの古戦場あとに よく行ってました^^
日進JCTの近くなのですよね。
場所は確認してあるのですが、まだ立ち寄ったことがないです。
城廻りが終わったら、古戦場を廻りたいと思っていますので、
ぜひ、行きたいと思っています。
いつもありがとうございます。☆
> 学生時代は遊びまわった阿蘇 とのコメントで~♪
> 地元~若しくは九州の方でしたか~?
出身が熊本ですよ~^^
貧乏な学生でしたが、車がありましたので夏は涼しい
阿蘇によく遊びに行っていました。
無料温泉もたくさんありましたし・・・。
こちらの記事をご覧ください。
熊本の自慢をしています。♪
http://piglet01.blog109.fc2.com/blog-entry-50.html
> きょうのクイズは「小牧・長久手の戦い」
> 以前 15年ほど前ですが 長久手に住んでまして
> 近くでしたからここの古戦場あとに よく行ってました^^
日進JCTの近くなのですよね。
場所は確認してあるのですが、まだ立ち寄ったことがないです。
城廻りが終わったら、古戦場を廻りたいと思っていますので、
ぜひ、行きたいと思っています。