前田慶次郎 その38 「慶次郎、穀蔵院飄戸斎に」

戦国風流武士 「前田慶次郎」 その38

『慶次郎、穀蔵院飄戸斎に』

家康は江戸に止まること20日、大坂で催促した諸大名の軍は陸続きに関東に入ってきた。

浅野幸長、福島正則、黒田長政、蜂須賀豊雄、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎などの大名およ

そ100人、兵数として5万5千余りであった。

家康も21日、兵8千を率いて江戸を出発、24日下野(栃木県)の小山に着いたが、この日、石田三成が西国

諸大名を糾合して兵を挙げた報告が届いた。

一方、会津では、家康が東に向ったとの情報が入ると、決戦準備にかかった。

家康は希世の戦争上手です。

「けーじろー」(堂森善光寺HPよりお借りしています)
ma.前田けーじろー

故太閤の雄才大略を以ってしても、実戦では家康に勝つことができなかった。2人が戦ったのは小牧長久手

の合戦ですが、始終家康方に先手を取られて秀吉方は振るわなかったのです。

だからと言って、上杉方は怖気付いていない。軍神毘沙門天の権化といわれ、自身もそう信じていた形跡の

ある謙信に鍛錬された猛士勇士が沢山いるのです。

しかも万全を期して、緻密な策を立てていた。

関東から会津に入るには、野州路をとって白河に入るのが順路だが、上杉家はこの白河南方一里半の地点

にある革籠ケ原を戦場として選んだ。

付近の村落全部を撤去させ、樹木を払い、山を切り崩して大地の凹凸をならし、三里四方を畳のように平坦

にした。

河水をせき止めて、満々たる大河を造り、底に大酒樽2千余りを沈めた陥穽も造った。付近の山々には兵も

伏した。

家康がどうあがいても、革籠ケ原に足を踏み入れたが最後、せん滅は免れない。恐ろしい戦略であった。

これらの準備をして待っているところに、家康が江戸を立ったとの情報が入ったので、上杉勢は会津を出発

したが、その出陣の勢ぞろいの時であった。

慶次郎です。

慶次郎は、林泉寺の和尚を懲らしめるために、自らも髪を剃ったが、そのまま再び髪をたくわえていなかっ

た。

「ちょうどいいわ。このまま入道することにするわい」

穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)と号した。

「人の世のことは、一寸先はわからん。ひょっとすればひょっとする。さればひょっと斎というわけ」

と説明した。

慶次郎さん、奥が深いですね!

ume 20120926

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:下野小山
家康は7月21日には江戸城を立ち、7月24日に下野小山に到着。
ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを知る。
家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる「小山評定」です。
家康にとって最大の問題は、豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。
家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得したという。

≪本日の問題≫


                          <参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
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