FC2ブログ

米沢での直江兼続 その1

『 米沢での直江兼続 』 その1

関ヶ原の戦いについて、1601年7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪。

家康から罪を赦された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許され、その後は徳川家に

忠誠を誓い、大阪の役にも参陣し「鴫野の戦い」などで武功を挙げています。


【兼続のまちづくり】

1601年9月、関が原の合戦後、米沢30万石へ減封されたが、家臣やその家族など合わせて数万人が一緒

に移り住んだといわれています。

小さな城下町は突然人であふれ、住まいの確保は至難の業でした。

兼続は早急にまちづくりにかかります。

本丸、二の丸の整備、三の丸の新設、侍町、町人町の整備、それに伴う生活用水路の整備など、短時間の

うちにまちの骨格を作り上げています。


米沢城下古図 (米沢城案内板より)
yo.米沢城 002
<画像はクリックで全て拡大します>


【治水事業】

兼続は、まちづくりと平行して治水事業にも力をいれています。米沢の東を流れる松川はたびたび氾濫を

起こし、川沿いの村は水害に苦しんでいました。そこで、約10kmわたって谷地川原堤防(蛇堤)を築き、

田畑や村民を守りました。今でも「直江石堤」として一部が保存されています。(直江堤公園)

蛇堤とは地元の通称で、大小の河原石を横にならべて積み上げる「野面積(のずら)」と呼ばれる、戦国

時代の石垣造りの工法です。この工事は下級武士を従え、兼続自ら指揮をとったといわれています。


直江石堤防
直江石堤 001
直江石堤 002 直江石堤 003


【殖産興業】

兼続は、米沢藩の収入を増やすため殖産興業にも力を入れました。青苧、紅花、漆などの換金作物の栽培、

鯉の養殖、ソバやウコギの栽培などを奨励するとともに、新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万

石と言われるまでに開発を進め、これらのものは、その後中興の祖上杉鷹山に受け継がれ、今では米沢の

名産品になっています。

そして、農民の生活にも目を向け、月毎に農民がどのような心構えで働いたらよいかを記した「地下人上下

共身持之書(四季農戒書)」を表し、日常生活の隅々まで気を使った指導をしています。


旧武家屋敷には、今でも「ウコギ」が植えられています。
米沢武家屋敷・ウコギ 001 米沢武家屋敷・ウコギ 002

*写真は平成24年10月5日、米沢への旅で撮ったものです。


sa-koかちゃんは怒っていました。(H24.10.13)
sa-ko 20121015

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:芳春院
芳春院は、1608年に玉室宗珀を開祖として加賀百万石の祖・前田利家の正妻“まつ”(芳春院)が前田家の菩提寺として建立した臨済宗大本山大徳寺の塔頭です。
大徳寺の塔頭の中では最も北に位置しています。

芳春院

≪本日の問題≫

関連記事
スポンサーサイト



テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

こんばんは。

いつも訪問ありがとうございます!

リンクを貼らせて頂きました。
今後もよろしくお願いします。  m(_ _)m

ともずみ ゆう さま

こんばんは、

こちらこそ、いつもありがとうございます。
特徴を捉えた似顔絵が素敵です☆

よろしく、お願いします。
プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム