三成の関ヶ原 その3 「武将派と奉行派」

「武将派と奉行派」

秀吉の家臣のなかで、加藤清正や黒田長政らの、いわゆる武将派と小西行長や石田三成らの、いわゆる

奉行派との対立・反目は、ある意味において宿命的なものであったと思われます。

これは一般的にいえば、武官と文官の反目であって、過去の歴史においても繰り返されていることです。

例をあげると、保元の乱における源為朝と藤原頼長のようなものです。

命をかけての戦争になると、実戦の場数を踏んだ武将の顔が利く。これは当然のことであり、その代わり

戦争以外のことはダメな場合が多い。

それにも関わらず、文官よりも武官のほうに人気が集まるのは、武官の活動が勇ましくて、華々しく、目立ち

やすいからでしょう。

石田三成
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石田三成の活躍した時代は乱世の末期であった。

ですから、彼のような奉行人の仕事は、加藤清正や福島正則のような武将の活躍と比べて、縁の下の力

持ちみたいに見られがちになります。

しかし、乱世末期の支配者となった秀吉は、武力によって諸国を平定すると同時に、統一政策にも力を注

がなければならない。

戦争には勝たなければならないが、勝つだけでは困る。占領地域の政治工作を巧みにする必要も迫られる。

武将も大切であるが、奉行人に人材を得なければならない。

その意味において、秀吉は武将を指揮して戦略を練ると同時に、奉行人や代官を駆使して、検地、刀狩、

地割、徴税、懲税、外交交渉などの事務を分掌しなければならない。

戦争に勝つにも、第一線武将の槍先の功名だけでは駄目で、戦線の後方にあって兵糧や弾薬を調達し、

これを補給する奉行人がいなければ、第一線の武士らも戦闘不可能となり敗北をせざるを得ないのです。

奉行人の存在とその仕事の価値が、いかに大きいかを最もよく認識しているのは秀吉であった。

ですから、秀吉は奉行人や代官の地位を高く買い、石田三成・増田長盛・前田玄以などを、第一線で活躍

する武将と同様に、重く用いていたのです。

秀吉は、その晩年に五大老の下に五奉行の職掌を設置したゆえんでしょう。


*三成に傾注した記事になっています。あらかじめご了承ください。

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≪昨日の解答≫
正解:福島正則
福島正則の母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕えています。

≪本日の問題≫


                  <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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