三成の関ヶ原 その6 「武将派と奉行派の反目」

『武将派と奉行派の反目』

秀吉の遺産分配がなされた前後あたりから、早くも五大老と五奉行のあいだに分裂の兆候があらわれ、

これは豊臣家の将来にとって憂慮すべきことになった。

毛利輝元と増田・石田・前田・長束の4奉行との結束がみられる反面、すでに浅野長政の離脱が始まって

いた。

浅野長政(1547-1611年)
as.浅野長政

その理由は、五奉行のうちで浅野長政は一人だけ、武人派の大名たちと親しくしており、秀吉の在世中の

1590年の小田原征伐の頃から石田三成以下4人の奉行と仲が悪くなり、徳川家康の後援によって石田

三成と対抗してゆくという現象が始まっていた。

これが朝鮮の役を経て、さらに激化してきたらしい。

秀吉が晩年の病床の中にあって5奉行の制度を定め、長政に三成らと協力して、その大任に当たらせよう

と考えたものも、ひとつに相互の間の融和をはかり後の禍根を未然に防ごうとするものであったらしい。

ところが、天下の形勢は、あたかも秀吉の死を待っていたかのように、人心が日増しに家康の基に集まっ

ていった。

つまり、五大老のうちでは徳川家康、5奉行のうちでは浅野長政がしだいに両制度から離脱し、独走を始

めています。これは最も危険なことであり、つまり五大老・五奉行制度分裂の兆候であったといえるので

しょう。

しかも、こうした傾向に対して、さらに拍車をかけたのが、朝鮮在陣諸将の帰還を動機としての、武将派

大名と奉行派大名との対立・反目だったのです。

sakura 20121126 001


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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:大和国郡山城
増田長盛は、1595年に豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられています。
大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱え、郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行っています。

≪本日の問題≫


                  <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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