三成の関ヶ原 その7 「武将派と奉行派の軋轢」

『武将派と奉行派の軋轢』

武将派と奉行派の反目が、対立・軋轢へとエスカレートしたのは、秀吉の死後であり、そこに朝鮮在陣

諸将の帰還を迎えてのことであった。

1598年11月から12月にかけて、朝鮮から諸将がそくぞく博多に帰還した。

石田三成は帰還の将士たちを出迎え秀吉の死を伝え、茶会を催し諸将士の辛労を慰めようとした。

加藤清正(1562-1611年)
ka.加藤清正 002

ところが三成に対して、“ふくむ”ところのあった加藤清正は

「われらごときは、在朝7年、茶なく、酒もなく、城塞の壁土を噛んで、露命をつないできた。ひえ粥くらい

ならば、当方から進上したい」

と、毒舌を吐き、その言葉を聞いた将士らも同調する者も少なくなかったという。

清正が三成に“ふくむ”ところがあったというのは、3罪(こちら)を秀吉に上申し、清正を召還させたのが

三成だと思い込み、自分の非を棚に上げて三成のことを恨み、そのことを根にもっていたからだという。

こんなことがあって、三成は帰還事務にも支障をきたし困惑しているところを救ったのが、小西行長であ

った。

行長は、朝鮮陣中を通じて清正とは仲が悪く、戦功のうえで常に対抗意識を燃やし続けてきたのです。

だから、行長は朝鮮役の先鋒を承った武将ではあったが、奉行派の大名である石田三成に加担する

ようになっていたのです。

武将派大名の背景には秀吉の正妻・北政所がおり、奉行派大名の背景には秀吉の愛妾・淀殿がいて、

両派の反目と対立をあおったとさえ言われます。

この両派の反目と対立を巧に利用し、武将派大名を味方に付けることによって自己の強化を図り、豊臣

政権の分裂を策していたのが徳川家康であった。

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≪前回の解答≫
正解:奥州仕置
1590年の奥州仕置では実行役として中心的役割を担い、取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処しています。

≪本日の問題≫


                   <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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