三成の関ヶ原 その10 「徳川屋敷への逃げ込み」

『徳川屋敷への逃げ込み』

*ご注意ください。三成に傾注した記事になっております。

前田利家の死は、天下取りの野望を胸に秘めていた59歳の家康にとっては、眼の上のタンコブが、また一つ

取れることとなった。

太閤秀吉の死後、豊臣家2世秀頼の後継人として、諸大名のうちでも家康とならんで重きをおかれ、豊臣政権

の支えともなっていた加賀大納言利家が病死したことは、家康の気持ちを軽くさせると同時に、反徳川派の

巨頭石田三成らの行動をも自由にさせ、天下分け目の関が原の決戦を誘引する原因になったといえるので

しょう。

前田利家(1538-1599年)
ma.前田利家 001

前田利家が死去した3月3日の夜、加藤清正以下の7将が三成を襲撃しようという企ての風説が流れ、これ

を耳にした三成は、以前より親しくしていた佐竹義宣の助けを受け、危ういところを逃れ、翌日、伏見の徳川

屋敷に身を投じたという。

通説では、三成は2度ほど家康を暗殺しようと企てたが失敗した。

その三成が、今やあべこべに7将の襲撃を避けて、伏見の徳川屋敷に逃げ込んだのは、窮余の一策に他な

らなかったという。

しかし、これは余りにも三成を軽蔑したつくり話だと思われます。

徳川家康や秀吉恩顧の7将を相手に、豊臣政権防衛のために、天下分け目の一大合戦を敢行するほどの

三成という人物が、このような動きをしたとは考えられないことです。

通説というものは、そのほとんどが江戸時代に書かれた史書によるものであって、徳川政権の樹立に逆らっ

た三成の悪口雑口を書くのを常識としているのです。

sakura 20121205

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:皎月院
石田三成の正室は皎月院(こうげついん)で、石田重家、石田重成、辰姫ら三男三女の子がいます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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No title

>しかし、これは余りにも三成を軽蔑したつくり話だと思われます。
>徳川家康や秀吉恩顧の7将を相手に、豊臣政権防衛のために、天下分け目の一大合戦を敢行するほどの
三成という人物が、このような動きをしたとは考えられないことです。
>通説というものは、そのほとんどが江戸時代に書かれた史書によるものであって、徳川政権の樹立に逆らった三成の悪口雑口を書くのを常識としているのです。

そうですよねぇ。例えば、神皇正統記と太平記は立場が違うから、描かれる人物も違って見えるのが当たり前、ということは分かる。
けれども、だから時流と体制の変化で、石田三成のように前政権の重要人物が悪く書かれるというのも当然すぎるくらいのこと、と、話半分で聞かなきゃならないのに、何だかそのまま、「三成?頭でっかちの官僚体質!」みたいな決めつけ方、されますね。「忠」と「義」を貫いた立派な人だと思いますけどね。

再起SR400 さま

こんばんは、
いつもありがとうございます。

“「三成?頭でっかちの官僚体質!」みたいな決めつけ方、されますね。
「忠」と「義」を貫いた立派な人だと思いますけどね。”

と評価される場合も多いのではないでしょうか。
特に現代においては…。

敗将の場合は、史実が塗り消されてしまいますので、寂しい限りですね。
でも、大きな名前を残していますので、大戦国武将には間違いないでよね!
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