三成の関ヶ原 その15 「家康は狸親爺」

『家康は狸親爺』

三成の窮地を救った理由として、三成の奉行職を奪い居城の近江佐和山城に閉居させた家康は、これまで

豊臣家の忠実な大老であった仮面を脱ぎ捨て、秀吉の遺令を無視し大胆不敵な行動を始めた。

備前の宇喜多秀家の老臣・長船紀伊守は腹心の家来中村刑部に命じて、財務をつかさどらせていた。

ところが刑部が苛政を行い、領民の恨みをかった。

宇喜多秀家(1572-1655年)
uk.宇喜多秀家

宇喜多家の老臣・戸川達安、宇喜多成政、岡勝則、花房正房の4人は長船の専横を憎んで、これを毒殺し、

さらに中村をも退けようとして、1599年10月に秀家に訴えた。

秀家はこれを許さなかったため、4人は加賀に逃げた。

戸川ら4人の老臣は、髪を剃り、宇喜多成政の屋敷に入り反抗した。

その時、大阪にいた家康は、ひそかに戸川らを救助したため、宇喜多家中は混乱に陥ったという。

これを見て、大谷吉継と榊原康政は協力して争いの調停を図ろうとしたが、家康はこれを責め

「なんじは、秀家から賄賂を貰っているのか」

とののしり、康政を江戸に帰らせた。

これを知った大谷吉継は、家康のことを恨み、それ以来、家康と疎遠になったという。

ついでに家康は戸川らの訴えをいれ、増田長盛、前田玄以の2奉行と共にこれを裁断し、宇喜多家の老臣

・戸川ら4人を配流に処したが、陰ではこれを扶助したため、秀家はこれが不愉快であったという。

つまり家康は、宇喜多家の家中の内紛を大きくさせて、その勢力を削ぎ、家老の戸川達安らを援助して、

恩を売り、彼らを与党に加えようと計ったのです。

他人の弱みに付け込んで私恩を売り、これを自分の見方にする。といったやり方は、家康の終生もちいた

常套手段で、最も巧妙な謀略であった。

このあたりが家康の狸親爺と呼ばれる所以なのでしょう。

ume 20121212 01

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦いは、1573年1月25日に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(静岡県浜松市)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人(信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。
この戦いは、信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康が大敗したことで有名な戦です。

≪本日の問題≫


                  <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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