三成の関ヶ原 その19 「景勝への上洛要求」

『景勝への上洛要求』

家康は、1599年の9月14日付けで、会津中納言上杉景勝に書状を送っています。

この書状は、景勝が前年の10月以降伏見に在京し、この年の8月10日に領国の会津に帰国した景勝か

らの来信に対する返信です。

その文中には、

“このあいだ、大坂にまかりくだり仕置きなど申しつけた”

とあるのは、9月9日の重陽の節句を祝うために大坂に赴き、豊臣秀頼に会見した家康を暗殺しようと企て

た浅野長政、大野治長、土方雄久の3人を処罰したことを意味する。

上杉景勝(1556-1623年)
ue.上杉景勝

この処罰が実施されたのは、10月2日のことで、長政をその領国の甲斐に蟄居させ、治長を下野の結城秀

康(家康の次男)の基にあずけ、雄久を常陸の佐竹義宣にあずけている。

さらに家康は、10月22日付けで書状を景勝に送り

「大坂は大丈夫だから、安心されたい。会津の仕置に多忙だと聞くが、もっともなことだ」

と述べている。

これは景勝が会津から、またもや家康に書信を送ったので、これに対する返事であった。

このように、この頃は家康と景勝との間は平穏無事であったといえます。

ところが景勝は、8月に会津に帰って以来、密かに着々と戦備を整え、若松城のほか周辺の城塞の修築に

専念していたのです。

年が明けて、1600年の正月になり、上杉の老臣・藤田信吉が年賀の祝辞を延べるために上洛し伏見に赴

くと、家康から景勝自身の上洛を促されという。

家康として景勝の行動を疑い、老臣の代参では満足しなかったのです。

これには藤田信吉の内通疑惑がありますが、これは20世紀に入ってから兼続が礼賛されるようになった

ために、兼続の方針に異を唱えて上杉家を追われた信吉が、家康と秀忠に対して「上杉氏に謀反の疑い

あり」と言上した悪党・奸物とされたのかも知れません。

sa-ko 20121219

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≪前回の解答≫
正解:玉子
細川忠興は、1579年、信長の仲介を受けて、明智光秀の3女・玉子(ガラシャ)と結婚しています。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となっています。

≪本日の問題≫


                  <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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