三成の関ヶ原 その20 「直江状は偽作」

『直江状は偽作』

家康は大老の宇喜多秀家・毛利輝元や奉行の前田玄以・増田長盛・長束正家らと相談し、さらに上杉景勝

に対して、上洛と陳弁を求めることにした。

しかし、景勝は上洛する気配などなく2月になると雪解けを待たずに、若松城の西方の神指原に8万人の人

夫を集め新城を築き始めた。

会津若松城 (登城記は、こちらです。)
ai.会津若松城(朱瓦) 002

3月13日、上杉家では謙信公の23回忌の法会を若松城内で盛大に執り行い、法事が終わると万が一の場

合に備えて、大評定に移り軍議が交わされた。

その席上に、内通疑惑の藤田信吉が城外に脱出したという報が飛び込んだ、景勝は直ちに追っ手を放った

が、信吉は江戸城に駆け込み、徳川秀忠に面謁し、ついで大坂に走って、上杉氏が戦備を整えている実情

を報告した。

しかし、家康は少しもあわてずに、またもや使者を会津に使わした。

これに対して、景勝は

「豊臣の幼君・秀頼公に異心などいただく筈もない。先ず、この景勝を控訴した者を吟味するがよい。3年間

は封地にあって、諸役を免除するとは、故太閤さまが許可されたことである。上洛する必要はない。」

と答え、家康の要請を一蹴している。

男、景勝ですね!

早くから石田三成と共謀し、東西から兵を挙げ、家康を挟み撃ちしようと企てた、という説がある。

この説を裏付ける文献さえあるが、それらは後世につくられた偽文書にすぎないという。

ことに景勝の重臣・直江兼続が家康の質問状に答え、上杉氏の立場と行動について弁解し、家康に逆襲

した痛快きわまる名文章があり、これを「直江状」と称して世に知られていますが、残念ながら、これは後

世の好事家の偽作だというのです。

景勝の戦争準備は、石田三成の挙兵とはあまり関係がなかった。上杉景勝としては、三成と示し合わせ

て家康を討伐しようと企てたのではなく、豊臣氏の政権が分裂し、弱体化してきたので、この際に上杉氏

の旧領国である越後までも併合し、会津を中心に地方的な一大勢力圏を確立し、万が一の場合に備え

ようとしたという考え方です。

ともかく、上杉景勝の重なる上洛拒否に、業を煮やした家康は、ついに会津遠征に踏み切った。

sakura 20121220 002

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≪前回の解答≫
正解:小早川隆景が隠居したため
景勝は、1594年には権中納言となり、「越後中納言」と呼ばれます。
この翌年、五大老の一人小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命されています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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