三成の関ヶ原 その46 「真田昌幸の取り込み」

『真田昌幸の取り込み』

真田昌幸あての石田三成の書状によれば、三成は挙兵と同時に信州上田城主・真田昌幸に西軍に味方

するようにと勧告を出したと思われ、それを承諾した旨を知らせる昌幸の使札が、7月27日に佐和山に届

いている。

真田昌幸(1547-1611年)
sa.真田昌幸公

それを見た三成は、有力な味方を得たことを喜び、7月30日に伏見城攻めの戦況を視察したあとで、伏見

から昌幸に返事を出しています。

その返信は、昌幸が前もって挙兵計画を知らされなかったことに不満の意を漏らしたのに対して、三成は

「家康が在坂中は、諸将の心も計りがたいから、蜜謀の漏れるのを恐れ通報しなかった」

と弁解し、上方の現状、伏見・田辺両城の戦況を告げ

「来春までには関東に出馬する予定でいる」

と述べている。

これによれば、三成は家康と決戦を交えて勝利を得た場合には、来春、つまり1601年の春までには関東

に出撃し、家康の居城・江戸城を陥落させる予定でいたことが判ります。

三成挙兵の目的が打倒家康にあったことが、よくわかります。

sakura 20130201 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:萩城
関ヶ原の戦い後、毛利輝元は120万石から37万石に減封され、剃髪して幻庵宗瑞と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲ったとされているが、実際にはこれ以後も実質的な藩主の座にあったという。
1603年には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌1604年に長門国萩城を築城を開始し、居城としています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ