三成の関ヶ原 その51 「西軍の伊勢路攻略」

『西軍の伊勢路攻略』

伊勢方面の諸大名のなかで西軍に味方したのは、桑名城主・氏家行広、神戸城主・滝川雄利、亀山城主

・岡本宗憲であった。

一方、東軍に属したのは、長島城主・福島正頼、上野城主・分部光嘉、阿濃津城主・富田信高、松坂城主

・古田重勝、岩手城主・稲葉道通であった。

阿濃津城 (津城登城記は「こちら」です。)
tu.津城 003-1

伊勢路に向った西軍は、まず、阿濃津城を攻めようと企て、8月5日に関・椋本(津市)の中間に到着した。

その時、徳川家康が関東から兵を返して西上するという風説が立った。

その風説に西軍の諸部隊のなかには、東軍に属した富田信高や分部光嘉など居城に帰ろうとして分乗し

た舟を見て、これを家康の西上と思い違いをし、鈴鹿山、亀山に逃げた者さえいたという。

長束正家、安国寺恵瓊らは、その日(8月5日)の夜に入って、ようやく関に駐屯していた西軍の諸部隊と

合流し、8月中旬になると長宗我部盛親、鍋島勝茂などの部隊もこれに加わり、阿濃津城攻略の作戦を定

めている。

その時の西軍の兵力は、毛利秀元、吉川広家、鍋島勝茂、竜造寺高房、長宗我部盛親、毛利勝永、長宗

我部盛親、長束正家、中山直隆、山崎定勝、松浦久信、藤田広定、石川頼明以下3万余人に達していた。

そして8月24日から一斉に攻撃を開始した。

東西両軍とも多数の死傷者を出し激戦を展開するなか、城主・富田信高の妻・宇喜多などは、婦人の身で

ありながら、鮮やかな鎧兜を着用し、持槍をふるって敵兵4、5人を倒したという。

翌25日には、西軍の僧侶2人が富田信高の降服を勧告したため、信高は、これに従い城を出て、剃髪し高

野山にのぼった。

阿濃津城を落とした西軍は、次に伊勢の松坂城を攻囲。

城主の古田重勝は、寄せ手の軍勢が圧倒的に多いのを知り、開城した。

さらに西軍は、長島城を攻めた。

この長島城主は東軍の福島正則の弟であり、防戦し容易に降服しなかった。

そのうち、副総大将の宇喜多家秀と参謀の石田三成より、家康の率いる東軍の主力が美濃に迫ったという

報告を受け、西軍の一部を伊勢方面に残し、主力を美濃に終結させるように指令したため、伊勢路における

西軍の作戦は収束しています。

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:おあむ物語
石田三成の家臣山田去暦の娘が、美濃大垣城で見聞した関ヶ原の戦いのようすを、尼になってから子供たちに語った追憶談の筆録を「おあむ物語」といいます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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