三成の関ヶ原 その69 「三成の泣き言」

「三成の泣き言」

三成は知識人の常として、時々、泣き言を言っています。

家康の会津遠征が始まる前に、三成は佐和山城から単騎で大坂に出向き、増田長盛と会見し密談した

という。

石田三成(1560-1600年)
is.石田三成 001

その時、三成が

「かくなる上は、五畿内の浪人どもをかき集めて、わが軍のとぼしいのを補い、家康に必死に戦いを挑む

ほかはあるまい。いかが」

と、意見を求めると、長盛は

「それもよかろうけれど、それではこちらから計画したように思われて、まずい。今すこし、時節が到来す

るのを待ち、天道の命ずるままに、任せるがよろしかろう」

といった。

すると三成は、微笑しながら

「太閤さまのおわずらいが快方に向かわれた時、貴殿や我らを召され、汝らに百万石ずつ与えようぞ。な

ぜかといえば、こんどの病中に、汝らを百万石の大名にしておけば、すべてが安心だと思ってみたからだ、

仰せられた。ところが、みんなが目を見合わせて、さても有難いお仰せである。なんとも申し上げる言葉も

ござらぬ。けれど、人の口の端もうるさいことだから、また、改めて仰せ下されたし。と言って、辞退申し上

げたが、いまにして考えても、帰らぬことであるが、口惜しいことだ。その時、百万石を拝領しておけば、

このような際に、なんの不足があろうか。ともかく、この三成は小禄で思うままの兵力を整えられない、

豊臣家のために、いろいろ計画して見ても思うようにいかない。残念なことだ。」

と、つぶやきながら佐和山に帰ったという。

pig 20130319

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Q903.
≪前回の解答≫
正解:織田信雄
織田信雄は、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては、織田信忠嫡男・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は徳川家康に接近して秀吉に対抗し、小牧・長久手の戦いに発展しています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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