三成の関ヶ原 その73 「関ヶ原決戦の前夜」

「関ヶ原決戦の前夜」

西軍の斥候が9月14日のお昼頃、大垣城に急帰し

「赤坂付近の敵の兵力が急に増加したのは、おそらく家康が到着したのであろう」

と、報告したため、西軍の陣営はにわかに動揺し始めた。

大垣城
oo.大垣城 004-1

その時、三成の家老・島左近が、三成に向かい

「この際、敵軍に一撃を加え、味方の武威を示し、全軍の動揺を鎮める必要がある」

と、進言したので、三成もこれに同意し、5百余の兵士を池尻口に出動させ、伏兵を木戸、一色村に隠し、

杭瀬川を渡って、東軍を誘致しようと図った。

それに刺激されて、東軍の中村一氏部隊の兵士が、先を争って出動した。

西軍方は、敵を欺き退却をはじめる。

東軍側は勝ちに乗じて、川を渡って追撃に移る。そこで、木戸、一色の村に隠れていた伏兵が、その後を

断って、挟撃し30名を討ち取った。

これを契機に、東西両軍の隣接部隊が暫く小競り合いをしたが、東軍が兵を収めたため、西軍もこれを追

わず戦闘を中止した。

家康が

「無益な戦いをしてはならぬ」

と、本多忠勝に命じて、諸部隊を引き上げさせ、もっぱら敵情を偵察させたという。

西軍の全兵力は決して少なくはなかったが、これを巧みに集結し、兵力を統一して東軍にあたるかが問題

であり、三成もそこを心配していたという。

9月14日、夜に入って西軍は、福原長堯(大分府内城主、三成の妹婿)以下7千5百ほどの軍勢を大垣城

に留め、石田・島津・小西・宇喜多の隊列で、全軍が大雨のなか密かに関ヶ原に向かって移動を開始した。

これは、家康が大垣城をさしおき、さらに西上して近江の佐和山城を攻略する作戦を立てたらしいという

情報が、西軍の陣営に入ったからであった。

西軍大移動の報告を受けた家康は、ただちに東軍の諸部隊に出動の命令を下し、西軍の後を追い、大雨

のなかを関ヶ原に向かって前進した。

このようにして、翌9月15日の天下分け目の決戦の幕が関ヶ原を舞台として切って落とされます。


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≪前回の解答≫
正解:岡山藩
小早川秀明は、筑前名島30万7千石で関ヶ原の戦いに参陣していますが、戦後の論功行賞で、備前と美作と備中東半国にまたがる、播磨の飛び地2郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封されています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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