三成の関ヶ原 その74 「西軍・関ヶ原へ集結」

「西軍・関ヶ原へ集結」

大垣城を出て関ヶ原に向かった西軍は、石田・島津・小西・宇喜多部隊の序列であったが、9月14日の

夜は雨が激しくて一寸先も見えない程であったという。

先頭の部隊が関ヶ原の西北の高地に到着したのが、翌15日の午前1時頃であった。

三成陣所から見る関ヶ原 (関ヶ原訪問記は「こちら」です。)
関ヶ原 003

三成は、諸部隊が大垣を出発したのち、単騎で岡崎を過ぎ、長束正家・安国寺恵瓊らと会い、また、松尾山

の麓で小早川秀秋の老臣・平岡頼勝と会見し、明日の作戦を打ち明け、狼煙をあげるのを合図に小早川部

隊が東軍の側面を衝くことを約束し、また、山中村で大谷吉継と協議した後、関ヶ原に向かい前進している

西軍の諸部隊に追いついている。

参謀でもあり、また、この決戦の主将でもある三成の緊張は大変なものであったことが、容易に想像できま

す。

もはや、西軍の諸将に対する不安不信の念も霧散し、三成の胸中は、ひたすら豊臣家の大敵・徳川を討た

なければならぬという闘志だけが燃えていたでしょう。

関ヶ原決戦の直前における西軍の戦闘配置は、以下のとおりであった。

・栗原山:長宗我部盛親(6千6百人余)

・栗原山岡ヶ鼻:長束正家(千5百人)、安国寺恵瓊(千8百人)

・南宮山および北方の山麓:毛利秀元・吉川広家(1万6千人)

・松尾山:小早川秀秋(1万5千6百人余)

・山中村および東方の高地:大谷吉継(千5百人)、脇坂安治)(千人)、朽木元綱(6百人)、小川祐忠

 (2千百人)、赤座直保(6百人)、平塚為広(3百60人)、木下頼継(7百50人)、戸田重政(3百人)

・天満山:宇喜多秀家(1万7千人余)

・天満山北方の丘:小西行長(6千人)

・小池村:島津義弘(8百人)、島津豊久(8百人余)

・笹尾山付近:石田三成・蒲生郷舎・島左近(5千8百人)

・その他:伊藤盛正(9百人)、岸田忠氏(3百人)、豊臣家臣(約千人)、川尻直次(3百人)、糟屋宗孝

 (3百60人)など

合計:約8万2千人であった。

つまり、西軍の陣地は栗原山から、南宮山・松尾山・天満山を経て、笹尾山に渡っていたのです。

この他に、大垣城の守備として、福原長堯(6百人)、高橋元種(1千5百人)、秋月種長(9百人)、垣見

一直(6百人)、相良頼房(5百40人)、熊谷直盛(4百50人)、木村勝正(3百人)の合計約4千9百

人がいた。

sakura 20130328 001

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≪前回の解答≫
正解:島 清興
通称である島 左近の名で一般に広く知られていますが、文書などから確かなのは清興(きよおき)です。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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