三成の関ヶ原 その81 「島津義弘の脱出」

「島津義弘の脱出」

最後まで踏みとどまったのは、島津隊であった。

義弘は丘上に登って西軍の惨敗を確かめ、甥の島津豊久、阿多盛敦らに向かい、

「後ろに伊吹の険を控え、前には敵軍が充満している。味方の兵はすでに減少し、賞賛とてない。この身は、

年老いて、険越えもできぬ。かしこに見える一隊は、家康の旗本であろう。これより一気に突入し、快く戦い、

死を潔くしよう」

と述べ、東軍の本陣を目指して突撃しようとした。

島津義弘(1535-1619年)
sh.島津義弘

しかし、豊久と盛淳が、どこまでも諌止するので、義弘もついにその言葉に従い、全隊を一丸となして、東軍

部隊の中央を突破し、保田から西南に向かった。

そこで、東軍の福島・小早川・本多・井伊の諸隊は、一斉にこれを追撃。

福島隊らの追撃を受けた島津隊は、豊久盛敦など、死傷者が続出し、義弘に従うものは僅かに80余騎であ

った。

島津義弘陣所跡
si.島津義弘陣所跡 002

一行が牧田川を超え、多良に向かって逃れようとしたとき、東軍の松平忠吉が井伊直政以下千余りの軍勢

を引連れて追いかけてきた。

島津隊は、踏み止まり応戦し忠吉に傷を負わせ、また直政も忠吉を助けて応戦したが、狙撃されて落馬した

という。

しかし、そのとき家康から追撃中止の命令が下ったため、義弘も危急を脱し、その場を去った。

これが午後2時半であった。

pig 20130415 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:伊藤盛正
伊藤盛正は、居城の大垣城を本陣にしたいと石田三成より要請があり、城を明け渡し、美濃国今村城に退去しています。
本戦では、松尾山城に陣していたが小早川秀秋によって追い出され、後に関ヶ原本戦にも参加しています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ