三成の関ヶ原 その82 「戦わなかった西軍の退却」

「戦わなかった西軍の退却」

栗原山の岡ヶ鼻山にあった西軍の長束正家と安国寺恵瓊は、関ヶ原方面の銃声を聞いて戦闘の始まった

ことを知り、作戦行動を起こそうと南宮山に陣した毛利・吉川隊にも行動を促した。

ところが、吉川広家・福原広俊などは家康との密約を重んじ、言を左右にして動かない。

そのうちに退却中の島津隊の兵士から関ヶ原の敗報を聞くに至った。

そこで、長束正家は伊勢に向かって退却したが、伊勢の長島城にいた山岡景友隊の追撃を受けて50人余

りの戦死者を出したという。

戦わなかった武将の布陣
se.関ヶ原の戦い布陣図 2

また、栗原山に陣した長宗我部盛親は、この日の朝から東軍が関ヶ原方面に進出したことを聞き、小荷駄

を伊勢方面に退かせたが、関が原の敗報に接すると、そのまま伊勢方面に向かって退去したが、その途中

に徳永寿昌の兵と戦い、80余人の戦死者を出している。

四国の英雄・長宗我部元親の次男としては、醜態であったのでしょう。

安国寺恵瓊も伊勢路に向かって退却し、諸所に忍び隠れ、最後に京都の本願寺にかくまわれたが、東軍の

兵士によって捕らえられている。

信長や秀吉の前途を予言し、朝鮮の役では朝鮮の民衆に日本語を教え、ちょん髷まで結わせた安芸の傑

僧としては、その最後が余りにもだらしがなかった。

ところで、西軍の裏切り者の張本人・吉川広家と福原広俊は、東軍の福島・黒田両将の指示に従い、毛利

秀元とともに、近江に向かって退却した。これは予定の行動であったのでしょう。

この秀元には、広家と家康が結んだ密約を知らせられていなかったため、一時、大坂城の養父・輝元のとこ

ろに引き上げようとしたが広家に説得され、やはり近江に向かって退却している。

秀元も、西軍の総大将に祭り挙げられた輝元と同様に、凡将にすぎなかったという。

pig 20130416 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:徳川家康
島津義弘は家康から援軍要請を受けて、千人の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。
しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍への味方を決意したといいます。
ただ戦いたかっただけなのでしょうか。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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