三成の関ヶ原 その86 「両軍勝敗の原因 (1)」

「両軍勝敗の原因 (1)」

天下分け目の関ヶ原決戦は東軍の大勝利に終わったが、両軍勝敗の原因は、そもそも何であったのか。

まず、西軍の作戦方針は消極的であったが、それほど拙劣なものではなかった。

家康から人質を捕られていて、その命令に従わざるを得なかった加賀の前田利長、および東軍側に属した

近江の大津城主・京極高次、丹波田辺城主・細川幽斎を牽制し、あるいは攻囲して、美濃に出動する西軍

主力部隊の側背を衝かれる危険を除き、上方における家康の根拠城である伏見城をぬき、その後、徐々に

伊勢・美濃方面に進出したのは、その順序を誤っていない。

三成陣所から見る関ヶ原
三成陣地 002

しかし、西軍の諸部隊の行動は統一性を欠いており、諸将の心もまちまちであったため、三成の作戦方針

を有効に遂行することはできなかった。

西軍の総大将は毛利輝元であったが、名義上の総大将は大坂城に君臨する豊臣二世の秀よりでもあるらし

く、その区別が曖昧です。

しかも、家康に対する挙兵の企画者は、第一線の参謀を勤める石田三成であった。

また、毛利輝元につぐ副総大将の宇喜多秀家が、第一線の総師でもあったのです。

従って、指揮系統がいくつもあって、常に統一性を欠き、しかも不徹底であった。

参謀の石田三成は、この挙兵の主謀者であるだけに、総師の宇喜多秀家の命令に従おうとしないし、毛利

部隊の毛利秀元・吉川広家、小早川秀秋らは、総師の宇喜多秀家と対立して、一歩も譲ろうとしなかった。

さらに、島津部隊の島津義弘も秀家の配下につくことを潔しとしなかった。このため、命令が徹底的に行

われない、遺憾のきわみ状態であったという。


松前城
北海道の3つの百名城を制覇しました。根室から函館まで走るだけの旅だったような気がします。
個別に記事にしたいとおもいます。
ma.松前城

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ