三成の関ヶ原 その88 「両軍勝敗の原因(3)」

「両軍勝敗の原因(3)」

東軍の方は、福島・池田ら秀吉恩顧の武将たちを、先鋒部隊として尾張の清洲に急行させ、その美濃侵

入、岐阜城陥落の功績を確かめた後、彼らを赤坂に待機させてうえで、はじめて江戸城を出発して西上し

た総大将・徳川家康の作戦の巧妙さは、さすがに凄いというべきでしょう。

徳川家康(1543-1616年)
to.徳川家康

また、赤坂に到着した家康が、西軍の諸将のうちで東軍に内通するものが意外に多いことを確かめると、

中山道を西上する徳川秀忠部隊の到着など待たずに、西軍の主力部隊が立て篭もる大垣城を無視し、さ

らに西進して三成の居城・近江の佐和山をぬこうとする気勢を見せたのは、作戦として、巧妙無類という

べきなのでしょう。

過去の苦い経験を活用することが上手なのは、信長・秀吉もそうであったが、家康は上手を通り越した

名人であった。

家康は、武田信玄に敗れた遠江三方ヶ原の経験を、この石田三成との関ヶ原決戦において、逆に活用し

て勝利を収めた、と思えます。

つまり、三方ヶ原で家康を破った信玄と同じことを、関ヶ原で三成にしてみせて勝利を得たのです。

1572年に、2万7千人の大軍を率いて遠江に侵入した武田信玄は、西上の野望に燃え、家康の居城

浜松を素通りして、三河に進出するように見せかけ、それに誘われて浜松城から出動した徳川軍1万人を

三方ヶ原に迎え、これを討ち破ったのです。

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:忍城
豊臣秀吉の関東平定の際、豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、忍城を一望する近くの丸墓山古墳に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うため、総延長28Kmに及ぶ石田堤を建設していますが、堤防は決壊し忍城は落城していません。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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No title

全国各地の松ぼっくりの味が楽しめていいですね。

あず さま

そうですね!

四国に行った時も、桂浜の松ぼっくりでした。
桂浜の松ぼっくりは、大きくて食べごたえがあったようです。^^
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