三成の関ヶ原 その98 「常山紀談」

「常山紀談」

「常山紀談」(江戸中期の逸話集)によると、三成を生け捕りにさせて田中吉政は、三成に対して丁重に会釈

し、

「このたび、数十万の軍兵を指揮されたことは、智謀に優れた結果と思われる。戦いの勝敗は天命ゆえ、人力

のおよびがたいところである。」

と、言って、礼儀を正した。

石田三成(小栗さん)
is.石田三成 小栗003

すると三成は笑い、

「豊臣秀頼公の御ために、将来の禍いを除き、太閤さまの高恩に報い、たてまつらんと思っていたのに、武運

がつき、このようなありさまになったことを、今さらどうして後悔しようぞ。これは太閤さまから賜った切刃政宗の

脇差しである。形見に進上いたそう」

と、言って、吉政に授けたという。

この時、三成は吉政のことを常々心安く

「田兵、田兵」

と、呼んでいたが、この時も「田兵」と呼びすてにし、平素と少しも変わらなかったという。

また、馳走係りの武士をつけて、もてなしをしたが、

「片時も早く死のう」

と、言って、食べない。

そこで、武士が

「兵部どの(吉政)の計らいにおよぶものはない筈でござる。よくよく御身をいたわり、最後の用意を整のられ

よ」

と、言った。

それを聞いた三成は、

「然らば、近ごろ、腹の具合が悪いから、韮雑炊などくだされたし」

と、言うので、さっそく用意して進めると、三成は快くこれを食べ、うち伏して、いびきをかいたという。

pig 20130519 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:立花宗茂
関ヶ原の戦いの戦後処理で、西軍側だった立花宗茂は領地を失い田中吉政が筑後一国32万5千石を許され柳川城主となっています。
しかし、田中氏が改易になると立花宗茂が筑後32万5千石のうち10万石だけ与えられ、再び柳川城主となり、明治を迎えています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ