三成の関ヶ原 その103 「干柿は痰の毒」

「干柿は痰の毒」

今日は、みなさんも良くご存知の「干し柿は痰の毒」です。


石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が伝馬に乗せられ、京都の一条の辻から室町を通って、寺町に出

て、六条河原に引き出されたのは、1600年10月1日のことであった。

三成は、その時に至っても顔色が平素と少しも変わらず、傍の武士に向かって

「この三成が大軍を率い、分け目の大合戦を行ったということは、天地が破れない限りは、明々白々、かくれ

ない事実である。少しも心に恥じることとてない」

と語ったという。(武功雑記)

佐和山城(CG画像)
佐和山城 003

洛中を引き廻される途中で、三成は、いかにも喉が渇いたので

「湯がほしい」

といった。

「贅沢をいわれるな」

と、警固の武士が、その辺をさがしたが、急に手にいりそうもないので

「湯はないが、ここに干柿がある。これを食われよ」

と、勧めた。

すると、三成は

「いや干柿は痰の毒と聞いている。食うまい」

と答えた。

警固の武士は、あざ笑い

「ただいま首を刎ねられる御仁が、毒断ちとは、気が知れぬ」

といった。

そこで、三成は

「汝らのような者には、そのように考えられるのが当然であろう、しかし、大義を想う者は首を刎ねられる間際

まで一命を惜しむ。なんとかして本望を達せんと思うからだ」

と述べた。

さすがの武士も、その言葉を聞いて胸をうたれたという。

また、薄気味悪くもあったでしょう。

三成が最後の際まで一時一刻も、その命を惜しんだのは、始終、豊臣家のためを想い、そのために全力を

傾注してきたことは間違いない。

目的を貫くためには、生も死も問題でなかった。ただ、不養生のために無駄死するのを嫌ったのです。

死ぬとしても、善死できぬことを恐れたのです。

sakura 20150527 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫(5月24日)
正解:名護屋城
名護屋城建設では、後方支援の三成と建設指揮の加藤清正が協力して短期間に10数万の兵をを収容できる基地を建設しています。
2人の仲が破綻したのは、文禄の役の講和問題が持ち上がった時期といわれます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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