「兵法者」 その4

『兵放者は華美な宣伝が上手だった?』

「一羽流」の流祖・諸岡一羽に3人の弟子があった。

根岸兎角、土子泥之助、岩間小熊。

一羽が老年になって病になったのを嫌って、兎角は一羽のもとを去り、自らの剣法を「微塵流」と名づけ、

初めは小田原で、次に江戸で門弟を集め、大いにに栄えたという。

この時の兎角の宣伝はすさまじかった。

「兵法天下無双」と称し、日常の服装は山伏姿で、天狗に兵法を習ったと言いふらしていた。

牛若丸伝説以来、天狗と武術とは切って離せないものとの信仰が日本には出来ていたのです。

兎角は後に、その不実を憤った岩間小熊と仕合して負け、行方をくらましていますが、戦国末期から江戸

初期までの武術家がどんなに自己宣伝に努めたかが分かります。

巌流島の決闘
ga.巌流島の決闘

吉川英治氏はその書「宮本武蔵」のなかで、佐々木小次郎に常に華麗豪奢な服装をさせています。

しかし、小次郎という人は殆ど伝記のわからない人です。

生国もわからない。生年もわからない。だから、死んだ時がいくつであったのかもわからないのです。

わかっているのは、年少にして西国の麒麟児といわれるほど剣名を馳せていたということと、舟島(巌流

島)で武蔵と仕合をして殺された時のことだけです。

彼のあの華美な服装は、その最後の時の服装なので、常にそうであったかはわからないのです。

吉川氏は、小次郎を放漫にして出世欲の強い性格の人物に設定したので、その効果上、常住あの派手

な装束をさせたのでしょうが、あの頃の武芸者の一般的風俗を良く表現しているのかも知れません。

sakura 20130611 001

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≪前回の解答≫
正解:小西行長
加藤清正は朝鮮出兵の際に、先鋒を小西行長と競いますが、一番隊が小西行長、二番隊が加藤清正になっています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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