『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その2

『義鎮(宗麟)は仁慈が欠けていた』

大友家の頼朝落胤説はあてになりませんが、鎌倉時代以後、大友家が九州一の名家であったことは事実

です。

oo.大友宗麟 無双

能直の子孫に親世という者があった。

南北朝時代の人ですが、武家方として南北側の菊池武朝と戦うこと71回、戦うごとに敗れたが72回目に

徹底的に勝利し、九州の覇者となり、豊前。豊後・筑前・筑後・肥後の6国を従え、足利3代の将軍・義満

から九州探題職たることを認められている。

この後、数代して義鑑(よしあき)となる。

義鑑はなかなかの人物で、武勇にも長けていたが、経済の手腕も優れていて、南蛮船を府内に近い神宮浦

に誘致して貿易の利を得ていた。

この義鑑の子が義鎮(よししげ)、入道して宗麟です。

義鑑には3子がいて、義鎮は長男として1530年に生まれています。

義鎮は少年の頃から恐ろしく気が荒く、兵法を好み、当時九州で盛行していた体捨流の剣法を学んで極意を

得、荒馬に好んで乗っていたという。

戦国武将の嗜みとして、大いに結構であったが、怒れば罪無き者も手討にし、日常好むところは、鷹狩・山狩

・川狩の類で、仁慈の心がさらさら無かったという。

そのため、義鑑は末子の到明(総明?)に継がせたと思うようになっていたという。

しかし、この話は眉つばもので、義鑑が後妻への愛に迷って嫡子を廃して末子を立てようとしたのでは、と

思えます。

pig 20130621 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:武田信玄
甲陽軍艦は、信虎時代の国内統一を背景に領国拡大を行った武田信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学などが雑然と構成され、江戸時代に読み物として親しまれたという。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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