後藤又兵衛のロマンを求めて、伊福の里へ

『大坂城五人衆・後藤又兵衛』

戦国武将・後藤又兵衛は1560年播州で生まれ、父・基国は三木城主別所氏の家臣でしたが、又兵衛が

まだ少年の頃に自刃しています。父の遺言により同輩の「小寺官兵衛」(後の黒田官兵衛)に仕え、天下

に聞こえた勇将となっています。

後藤基次(又兵衛)1560-1615年
go.後藤基次

黒田氏が中津に入封すると、領内の土豪や剛将・宇都宮鎭房を降伏させるなど功労が大であったという。

また、黒田如水、長政父子が筑前博多へ入封すると、黒田24勇士の猛将として1万6千石を与えられて、

大隈城(益富城)主となっていますが、官兵衛が亡くなった2年後の1606年に黒田家を出奔し、京都で

浪人となる。

大阪の陣が起こると、秀頼の招きに応じ大坂城に入城。夏の陣では大和方面に出馬し、道明寺河原で討

ち死にしたと有名な話が伝わります。

平成25年7月5日 中津城を攻城した後、又兵衛さんのお墓へ目指し裏耶馬溪へ
ma.又兵衛墓 001 ma.又兵衛墓 002

裏耶馬溪温泉から見る「裏耶馬溪」
ma.又兵衛墓 003

しかし、道明寺河原で討ち死にしたのは影武者で、大坂方の敗戦の後は、放浪の旅で西下し中津時代の

知人である女性・お豊のいる「伊福の里」へたどり着き、その後は、お豊さんや里の人々と平穏な日々を過

ごしていたというのです。

ma.又兵衛墓 004

豊臣家再興を期していたが、風の便りに豊臣家廃嫡の不運を知り、遂に自刃したと伝えわるそうです。

時が過ぎて村人は、この自刃した武士が後藤又兵衛であったことを知り、墓を立てましたが、後に、伊福

茂助が昔の墓の荒廃を見かねて建て替えたのが1763年でした。

ma.又兵衛墓 005 ma.又兵衛墓 006

墓には「義刃智光居士」と書いてあります。

また、碑文にも後藤又兵衛とは、はっきり書いてありません。

又兵衛さんは、1560年生まれとされますので、94歳の長寿で自刃したことになりますが、大分の山深

い里で、知人の女性と余生を過ごしたかと思うとロマンがありますね。

「平家の里」を彷彿させるような山深い里に墓はあります。(お墓の前から写す)
ma.又兵衛墓 007

又兵衛さんの墓所は、この他に奈良県大宇陀町の薬師寺、大阪府柏原市の玉手山公園、愛媛県伊予市

の長泉寺、鳥取県鳥取市の景福寺などにたくさんあります。

pig 20130727 001

ランキングに参加しています


いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:府蘭
宗麟は、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いています。

≪本日の問題≫

関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ