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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その27

『耳川合戦の大敗の原因』

宗麟は日向北部の県(アガタ:今の延岡付近)に留まって、さらに南下して日向に向う軍の指揮は、前夫人

の兄・田原紹忍に任せた。

南日向に入った大友勢は、はじめは調子が良かったという。

伊東家を再興する軍ということで、伊東家の旧領民らの者が島津氏に背き大友勢に属して来たりして、小さ

な城を守っている島津方との小競り合いには勝利した。

oo.大友宗麟 005

しかし、薩摩本国から島津の当時の主・義久と弟・義弘が駆けつけて決戦になると、大友勢は散々に斬りた

てられ、死者算なしという程の大敗北を喫した。

大友方のこの大敗の原因を大友記では、勝敗が決まらないうちに主将たる田原紹忍が臆病風に吹かれて

退却したので総敗軍になったと記している。

一方、薩摩側の記録では、紹忍はしんがりを努め70人の兵を率いて、かつ戦い、かつ退くさまは、進退法

あってあっぱれであったと褒めている。

敗戦の真の原因は、大友軍が日向に乗り込む途中で演じた、神社・仏閣に対する乱暴狼藉な振る舞いが

原因であったことはいうまでもないことでしょう。

大友軍の将校や兵士らは、少数のキリスト教信者を除いて、みんなが嫌であったことは間違いないでしょう。

命令だから仕方なく社寺を焼き、神仏像を泥土に踏み込んだのです。

これらの行為は、この当時はたいへんな悪行なのであり罪悪感があり、神仏の罰を恐れたのに違いないで

しょう。

これらの行為は士気を低下させるとともに、神罰はないか、仏罰ではないか、タタリではないかと、心を怯え

させ、戦う前からは大敗は決まっていたようなものです。

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:島津義久
耳川の戦いは、1578年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県)を主戦場として激突した合戦です。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいいます。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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