『逆臣の武将・明智光秀』 その16
明智光秀はなぜ謀反したのか。
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
みませんか。
『光秀叛逆が怨恨説の大きな材料』
光秀は喜んで対談したが、一礼おわって祝儀の席上、かくしおいた壮士らを出して波多野兄弟を捕らえに
かかった。
兄弟は刀を抜き、力をつくして戦ったが多勢に無勢ついに捕らえられる。
光秀の老母殺害

光秀はこれを安土に送って、この次第を言上した。
すると、信長は波多野兄弟を磔にかけて殺した。
八上の城兵らは、主人兄弟のこの悲惨な最期を聞くと、人質の老母をはりつけにかけて殺して鬱憤を晴ら
した上で、攻囲軍と戦って死んだという。
以上が、総見記(織田軍記:1685年頃)の記述です。
これが光秀の後の叛逆の原因が信長に対する怨恨であったという説の最も大きなよりどころとなる材料で
す。
しかし、この話をそのまま信じると、光秀は功をあせって最初から母を捨殺しにするつもりであったというこ
とになります。
だまし討ちにして縛って安土に差し出す以上、信長がこれを誅殺することを予期していた筈であり、そうな
れば人質たる老母が殺されるのが覚悟のうえであったと考えなければなりません。
あるいは、うまく老母を奪い返す予定であったかも知れませんが、それは冒険に過ぎると思われます。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:殺害された
八上城に人質として自身の母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害したため、激怒した八上城の家臣は光秀の母親を殺害しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて
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『光秀叛逆が怨恨説の大きな材料』
光秀は喜んで対談したが、一礼おわって祝儀の席上、かくしおいた壮士らを出して波多野兄弟を捕らえに
かかった。
兄弟は刀を抜き、力をつくして戦ったが多勢に無勢ついに捕らえられる。
光秀の老母殺害

光秀はこれを安土に送って、この次第を言上した。
すると、信長は波多野兄弟を磔にかけて殺した。
八上の城兵らは、主人兄弟のこの悲惨な最期を聞くと、人質の老母をはりつけにかけて殺して鬱憤を晴ら
した上で、攻囲軍と戦って死んだという。
以上が、総見記(織田軍記:1685年頃)の記述です。
これが光秀の後の叛逆の原因が信長に対する怨恨であったという説の最も大きなよりどころとなる材料で
す。
しかし、この話をそのまま信じると、光秀は功をあせって最初から母を捨殺しにするつもりであったというこ
とになります。
だまし討ちにして縛って安土に差し出す以上、信長がこれを誅殺することを予期していた筈であり、そうな
れば人質たる老母が殺されるのが覚悟のうえであったと考えなければなりません。
あるいは、うまく老母を奪い返す予定であったかも知れませんが、それは冒険に過ぎると思われます。
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≪前回の解答≫
正解:殺害された
八上城に人質として自身の母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害したため、激怒した八上城の家臣は光秀の母親を殺害しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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