『逆臣の武将・明智光秀』 その19

明智光秀はなぜ謀反したのか。

その真相は闇の中で怨恨説、久しい計画説、危惧説など多くの説があります。この闇の中を一緒に覗いて

みませんか。


『武田家滅亡』

丹波の平定が終わった1579年の初秋から1582年の春にかけては、信長の事業が順風満帆の勢いを

もって進んだ時期です。

武田勝頼自刃の地(天目山・景徳寺)
景徳院・勝頼家族の墓

1579年10月には、1年の長きに渡って頑強に抵抗していた荒木村重の有岡城が落城した。

1580年の正月には、2年に渡って反抗し、さすがの秀吉をてこずらした別所長春の播州三木城が陥り、

3月には本願寺との講和が成立して、本願寺は石山城を明け渡した。

本願寺との抗争は前後実に11年に渡っていたのです。本願寺の大坂退去は、ふさがっていた中国への

進路が開けたという意味で大きかったのです。

1581年10月には、信長の中国方面派遣軍の司令官である秀吉が鳥取城を陥れた。鳥取城は山陰道

における毛利氏の前線拠点であったから、ここを失っては毛利氏としても後退を余儀なくされている。

1582年の3月には甲州の武田氏が滅んだ。

この年の2月はじめ、信長は徳川家康とともに兵を向けたが、以前あれほど精強で、信長を恐れさせてい

た武田軍はまるで闘志を失っていた。

連合軍は無人の野を行くがごとく進撃して3月11日には主将・武田勝頼以下家族の逃げ篭っている天目

山を攻めつけ、これを自殺させた。

この甲州征伐には光秀も従軍しています。


ランキングに参加しています


いつもありがとうございます。


pig 20131029 001

『戦国クイズ』

≪前回の解答≫ (10月26日)
正解:毛利元就
光秀は流浪時代、毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つ狼のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。」と言い断ったという。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ