「豊臣秀次」に関し興味深い記事 (産経新聞)
『豊臣秀吉の「秀次に切腹強要」に疑義』
これまでの通説では、豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥の関白秀次が邪魔になって切腹させた-。
この通説に国学院大の矢部健太郎准教授が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図
に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表しています。
秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している
という。
豊臣秀次(1568-1595年)

秀吉の姉の子である秀次は1591年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生
から2年足らずの1595年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切
腹しています。
切腹に至る詳しい事情の史料はありませんが、儒学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太
閤記では「切腹命令」という文書を掲載。
文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付があるという。
矢部准教授はこの日付について、「京都から約130キロ離れた高野山までは坂も厳しく、歩いて3日はかか
る。13日付の命令書を持って多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。
そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へ宛てた書状に
着目。
「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されており、
「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えて
いたと思う」と推測する。
また秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」1595年7月16日
条には「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」
という記述は秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだと指摘。「秀次は高野山
での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した」とみている。
しかし、秀次の死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清されていること。また、秀次に関連した
大名は監禁させられ聚楽第も破却されていることは、どう説明するのでしょうか。
興味深いですね。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (11月15日)
正解:学校
本能寺は、1591年豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転させられ、旧本能寺跡には、京都市立堀川高等学校本能学舎などがあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:産経新聞(11月18日)>
これまでの通説では、豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥の関白秀次が邪魔になって切腹させた-。
この通説に国学院大の矢部健太郎准教授が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図
に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表しています。
秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している
という。
豊臣秀次(1568-1595年)

秀吉の姉の子である秀次は1591年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生
から2年足らずの1595年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切
腹しています。
切腹に至る詳しい事情の史料はありませんが、儒学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太
閤記では「切腹命令」という文書を掲載。
文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付があるという。
矢部准教授はこの日付について、「京都から約130キロ離れた高野山までは坂も厳しく、歩いて3日はかか
る。13日付の命令書を持って多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。
そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へ宛てた書状に
着目。
「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されており、
「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えて
いたと思う」と推測する。
また秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」1595年7月16日
条には「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」
という記述は秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだと指摘。「秀次は高野山
での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した」とみている。
しかし、秀次の死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清されていること。また、秀次に関連した
大名は監禁させられ聚楽第も破却されていることは、どう説明するのでしょうか。
興味深いですね。
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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (11月15日)
正解:学校
本能寺は、1591年豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転させられ、旧本能寺跡には、京都市立堀川高等学校本能学舎などがあります。
≪本日の問題≫
<参考文献:産経新聞(11月18日)>
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はじめまして♪
こんばんは!Soiveと申します(*´∀`)>
私もこのニュースが気になってましたぁ…
でも、そっかぁ…切腹後の処断劇を思えば…
やはり、秀吉の命令であることに納得ですね!
木食応其宛ての書簡は…
切腹までの間は元大名としての格式で!と受け取れないこともないし…。
では、お邪魔しましたぁー(*´∀`)ノシ
私もこのニュースが気になってましたぁ…
でも、そっかぁ…切腹後の処断劇を思えば…
やはり、秀吉の命令であることに納得ですね!
木食応其宛ての書簡は…
切腹までの間は元大名としての格式で!と受け取れないこともないし…。
では、お邪魔しましたぁー(*´∀`)ノシ
Soive さま
こんばんわ~
訪問&コメントありがとうございます!
歴史が詳しいですね☆
木食応其は、秀吉に貢献している元武将ですから秀吉が
直接に書簡を送ったということは、十分にありますよね。
いずれにしても、秀吉は少ない身内を失ったことが、
関が原の戦いに影響したことは間違いないのでしょね。
週末は写真が多め、Weedayは歴史のブログです。
また、遊びにきてくださいね!
訪問&コメントありがとうございます!
歴史が詳しいですね☆
木食応其は、秀吉に貢献している元武将ですから秀吉が
直接に書簡を送ったということは、十分にありますよね。
いずれにしても、秀吉は少ない身内を失ったことが、
関が原の戦いに影響したことは間違いないのでしょね。
週末は写真が多め、Weedayは歴史のブログです。
また、遊びにきてくださいね!