【加藤清正】 その1

加藤家は2代で改易になっておりますが、肥後(熊本)では今でも「清正公(せいしょこ)さん」として、現在も

史跡や祭りなどで取りあげられています。


『清正、秀吉の子飼いに』

尾張には加藤姓が多いという。

加藤とは加賀の藤原氏の意味だという説がありますが、清正の家はこの加藤とは違って、権中納言・藤原忠

家の流れだという。

清正は清忠の子で、1562年6月24日の生まれです。

加藤清正(1562-1611年)
ka.加藤清正像 002

父・清忠が死んだとき、わずか3歳であった。

幼名を虎之助といい、9歳まで中村で育っています。

中村は秀吉の生まれた故郷であり、虎之助の母は秀吉の母と従妹同士であった。

虎之助が9歳になったとき、母は

「親戚の藤吉郎殿は織田家に仕えて、今では江州長浜で5万石の大名になっておられる。この子の行く末を

これに頼もう」

と思案して、虎之助を連れて長浜に行き、秀吉の母に会って頼むと、秀吉の母は、ようこそたずね参られた

と迎え、秀吉に引き合わせた。

以後、虎之助は秀吉の母側で養育されたという。(清正記)

秀吉は肉親に愛情の厚い人です。頼って来れば親戚の頼みを放っておける人ではないのです。

虎之助は15歳の時、前髪をおとして男となり、清正と名乗った。

烏帽子親には秀吉がなったのでしょう。秀吉はこれに170石の知行を与えた。

秀吉の家中に塚原小伝次という兵法者がいて、清正の遠縁にあったそうで清正は小伝次ぐについて兵法を学

んだという。


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫ (12月14日)
正解:天海
明智光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がありますが、天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多いといわれます。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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