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【加藤清正】 その8

『賤ヶ岳の七本槍』


賤ヶ岳の戦いは、伊勢攻めの2ヵ月後であった。

清正はこの時、乗馬が2頭とも病気であったので、徒歩で従ったが大垣から賤ヶ岳まで20里(約80km)の道

を、秀吉の後について疾走したが一歩も遅れなかったという。

賤ヶ岳合戦図
si..賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳七本槍の名は高いが、これは敵の佐久間玄蕃・その弟・柴田勝政(勝家の養子)が退却にかかった際、

その追撃戦の時、秀吉の側近の若武者、加藤虎之助清正・平野権平長泰・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・福

島市松正則・糟屋助右衛門武則・片桐助作且元の7人が、それぞれ槍を振るって抜群の功を立てたところから

有名になったのですが、それは宣伝上手な秀吉が随分と宣伝に努めたからだという説が昔からあります。

これ以前には、今川義元と織田信長とが参州小豆坂で戦った時に、織田方の7勇士をたたえた小豆坂の7本

槍というのが有名であったが、この時以降、賤ヶ岳の7本槍に名を奪われてしまっています。

秀吉の宣伝上手もあったのでしょうが、賤ヶ岳合戦は一種の天下分け目の戦いですから舞台も良く、こちらの

方が有名になったでしょう。

この時、清正は真っ先に飛び出し、一番槍と名のって敵の部将・拝郷五左衛門隊の鉄砲頭・戸波隼人という者

を討取っている。

この戦いの後、7本槍の対して一様に3千石を与えられたが、福島正則だけは5千石を与えられた。

「祖父物語」は、この時のこととして、面白い話を伝えている。

秀吉の朱印状を取次の杉原伯耆(ほうき)から渡された時、清正は居高だかになり

「市松もご一家、われらもお爪の端でござる。こんどの槍、われら少しも市松に劣り申さぬに、何でわれらの

方が2千石少ないでござる。気にいらねば、このお墨付き、お返し申す」

とどなって、杉原に返した。

大きな声であったので、秀吉の耳に届いた。

秀吉は

「虎(清正)は総じてアホなやつじゃ。しばらく受取っておけい。やがて市松と同じにしてやる」

といって、間もなく加増して5千石にしてやったという。

福島は秀吉の従兄弟、清正は又従兄弟で、血縁的に親疎(しんそ)があるのです。



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いつもありがとうございます。


pig 20131228


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:織田信雄
滝川一益の居城であった長島城は、賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるが、1586年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため清洲城に移っています。

≪本日の問題≫


                                         <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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