【加藤清正】 その11

『清正、小西行長の熊本入り』


肥後国人一揆勃発したので、佐々成政は京都に召還され、尼崎まで来たところで秀吉の使者が行き向かい、

切腹を命じたため、佐々は尼崎の法園寺で腹を切っている。

清正記によると、その使者には清正が立ち、高声に秀吉の命令書を読んで聞かせ、切腹させたとありますが、

川角太閤記では、藤堂高虎が上使で行ったと書いている。

加藤清正(1562-1611年)
ka.加藤清正像 002

秀吉は肥後を2つに分けて、北半分を清正に、南半分を小西行長に与えた。

清正の所領25万石、熊本(当時は隈本)を居城とした。

小西行長(1558-1600年)
ko.小西行長 003

小西は24万石、宇土を居城とした。

肥後は全部で54万石あるから、5万石残るが、これは公領として2人がそれぞれに代官することになったと

いう。

以上は清正記の記述で、川角太閤記では清正26万石、小西12万石とある。肥後国志にも小西24万石と

あので、清正記の方が正しいのでしょう。

清正は1588年6月27日、隈本に到着し佐々の家老から城地を受け取った。

この時、佐々の遺臣300人を召し抱えたという。それはそうだったのでしょう。

5千石から25万石の大名になったのです。大量に家来を召し抱えなければならなかったのですから。

入部の後、暫くは領内巡視と一揆討伐に日を送った。

しかし、おおかたは佐々の時代の騒ぎで国侍の力も弱っていたので、たいしたこともなく領内は静穏になった

という。

これは清正の幸運であった。

一揆征伐が大変であったのは、小西の方であった。小西の領内に天草があったからです。

小西は入部すると、宇土城の普請にかかり天草の地侍・志岐林専、天草伊豆守に手伝いを命じたところ、2

人は

「われらは先年、関白殿下薩摩ご征伐の時、おん先手を仰せつけられ、薩州川内川まで船を出して忠勤を

ぬきんでたるにより、殿下ご感賞あって、天草郡を永代われら両人に下し給うとのご朱印状を下しおかれて

います。天下のご普請や軍役の際は、小西殿与力を仰せつけられているのでござる故、お手伝いもいたそう

が、小西殿私ご普請などに何しにお手伝い申そう。われらも似合いの小城を持っておりますれば、その普請

で急がしゅうござる」

と返答した。

これは清正記の記述ですが、事実とすれば天草の2人侍も余計なことを言ったものです。

最後の「こちらも似合いの城を持っている・・・」などは、喧嘩売りの口上です。

気に入らずば討手をよこされよ。この城に篭って一戦つかまいろうという意味なのです。


ランキングに参加しています


いつもありがとうございます。


sakura 20140107


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:さらさら越え
小牧・長久手の戦いで、秀吉と信雄・家康との間で和議が成立すると、厳冬の北アルプス・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破し家康に再挙を促した(さらさら越え)。
しかし家康の説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかったという。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

おはようございます\(・o・)/

エリートが自分より身分が下だった者の下に付くのは耐えられない屈辱だったのでしょうね。いつまでもエリート気取りの成政の秀吉もそこが気に入らなかったのでしょう。しかし敗者に50万石は破格の待遇ですよね。

国も人も治めるのは難しいことですよ(*´ω`*)

たけぞう さま

こんにちは

秀吉さんに比べると、みんながエリートだったのでしょうね。

今の時代と違い、下克上の世ですから割り切りもあったの
プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ