【加藤清正】 その19

『秀吉の外征命令』


朝鮮の役が始まったのは、1592年の正月であった。

秀吉は北の政所に出した手紙どおりに、九州征服の直後に対馬の宗氏を介して朝鮮に入貢(にゅうこう)国王

の参勤を命じていたが、埒(らち)があかない。

あかない筈です。

宗氏は朝鮮を恐れて、秀吉の言葉どおりに伝えていなかったのです。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

しかし、秀吉の督促が厳しかったので、宋氏はやっと朝鮮を口説き落として通信費を送らせることに成功した。

宗氏は、この辺のところで秀吉をごまかしてしましまうつもりで、あったのです。

通信使は1590年7月下旬に着いたが、この時秀吉は小田原征伐が終わって、奥州征伐に行っている時であ

った。

秀吉は9月1日に京都に帰ったが、11月になってやっと使節らに会った。

国王の参観を待っていたのに、使節を送ってきたので気に食わなかったのでしょう。

この時、使節らの持ってきた国王の書簡は「殿下が日本を統一されたことを祝賀して使節を遣わします。以後、

どこよりも親しくいたしましょう。いささか土産物を持たせてやりましたからお笑納ください」

という意味の、つまり普通の賀状に過ぎなかったのですが、秀吉はこれを臣服申し送ったものとして、大いに満

足しているのです。

秀吉だけでなく、大名たちもそう思ったのです。

これは、朝鮮使節を案内して来た宗氏主従や、この問題に宗氏とともに関係するようになった小西行長らが、

「朝鮮王は殿下のご威光に驚嘆し、おそれ臣服しているのでございます。でなくて、どうして使者など遣わしま

しょう」

などと言葉巧みに説いたのでしょう。

秀吉を始め、当時の大名らは学問などなく、難しい文字を並べた漢文を漢文訓読式に読まれたのでは、つい

そうかいなとなってしまったのでしょうか。

しかし、とんでもない間違いをしたもので、秀吉ほどの人間も多年のトントン拍子の運の良さに、相当タガが緩

んでいたということでしょう。

その後も度々の交渉も行ったようですが、日本側の宗氏と小西行長は、適当に時を稼いでいるうちには秀吉

の気持ちも変わるだろうと思っていたらしく、いいかげんな交渉をしており、朝鮮側は日本の事情はわからない

ので埒(らち)のあく筈もなく、ついに秀吉は外征命令を下した。



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いつもありがとうございます。


sakura 20140117


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:名護屋城
豊臣秀吉は1591年8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じています。
加藤清正、寺沢広高が名護屋城の普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の1592年3月に完成しています。
規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであったそうです。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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