【加藤清正】 その29

『清正はヒステリックな武将であった?』


清正は内地に帰ると、比較的に仲の良かった増田長盛を訪れ、秀吉へのとりなしを頼むと、増田は

「治部(石田三成)と仲直り召されよ。さすれば、われら明日にでも治部へ申して救解申しでござろう」

という。

加藤清正(1562-1611年)
ka.加藤清正 002

清正はかっと激して

「八幡大菩薩も照覧あれ、治部めとは生涯仲直りなどはいたさぬ。きゃつ、数年朝鮮に在陣しながら一度の

合戦にも出ぬくせして、人の陰口ばかり申しまわって人を陥れるたくらみばかりしている汚なき奴でござる。

かような奴と仲直りなど真っ平でござる。貴殿もまた貴殿だ。数年朝鮮にまかりあって昼夜苦労していた拙

者がまいったのであれば、玄関までとは申さぬが、せめて次の間くらいまでは出て、『久しや、なつかしや』

くらいの挨拶はあって然るべきに、座敷に座ったまま動かず、首ばかりひねり廻しての挨拶とは、ありがたく

もなし、所詮貴殿などのような礼儀も知らぬ人と相談してはならぬこと。今後は一切不通でござるぞ!」

と荒々しく言い捨てて帰ったと、清正記にある。

清正のこの態度は相当にヒステリックで、八つ当たりの気味です。

清正記にも、清正の家来が

「さてさて、物狂わしきお人かな。奉行衆の中に増田殿ひとりだけはじっこんにしておられたのに、これでは

一筋の頼みの綱も切れた。やがて切腹という悲しいことになるであろうぞ」

と嘆いたとある。

三成らの仕打ちに対して随分と腹を立てていたことがわかります。


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いつもありがとうございます。


pig 20140203


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:大うつけ
信長さんは幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称され、また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたそうです。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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