【加藤清正】 その36

『豊臣家への忠義』

清正は関ヶ原の戦いで、東軍に味方したとはいえ、豊臣家に対する忠誠心を失っていた訳ではなかった。

戦い後、天下は徳川家に帰し、清正もまた江戸に参観するようになり、江戸に邸も営んでいますが、その往来

には必ず数百人の家臣を従え、大坂を通過する度に秀頼の元へご機嫌を伺った。

それを気にした家康は謀臣の本多正信が清正と入魂(じっこん)の仲であるのを利用して

「肥後守だがな、あれにその方の考えから出たことにして、かくかくしかじかと意見してみよ」

と命じた。

本田正信(1538-1616年)
ho.本多正信

正信は清正の邸に行き、雑談のついでのようにして言った。

「拙者は貴殿にいつか折を見て申したいことがあるのですがな」

「ほう、何でござろう。うけ賜わりましょう」

「3ヵ条ござる。その1つは、唯今では中国・四国の大名衆は船で大坂に着かれると、そのまま駿府なり江戸へ

なり参られるのが普通でござるが、貴殿は以前と変わらず、先ず秀頼公のご機嫌を伺い、しかる後にこちらに

おい出ござる。大坂の方を重しとしていられるかに見え申す。おためによろしくないことではござるまいか。

その2つは、天下太平の今日では、諸大名衆いずれも参観の節には家来の数を減らしていなさるのでござる

が、貴殿には昔と変わりなく多数をお従えでござる。ことのほか外に目に立ち、何とやら殺伐に見え申す。

3つは、昨今は大名衆の顔にひげ立てられたくはなく、皆々きれいに剃り落していなさるが、貴殿は口ひげ、

顎ひげともにお立ててござる。殿中総出仕の折など、これまた異風殺伐に見え申す。いずれも世間なみでな

いこと。世間なみにいたされてはいかが」


清正は答えた。

「拙者はご承知のとおり、故太閤の一方ならぬ温情によって成人いたした者でござる。御当家の世となって肥

後一国の領主という大身になりましたことなれば、御当家の厚恩は忘れはいたさぬが、さればといって昔の恩

を忘れるような軽薄は武士として嫌でござる。次に参観の従者のことでござるが、なるほど供の人数が少なけ

れば費用もかからず、そういたしたくはござれども、拙者本国は遠くござる。万一にも急御用など差し起こりま

した節、時を移さず御用を務めるためには、常に多数召し連れている必要がござる。次に、第三のヒゲのこと。

拙者も剃り落したならば、さぞさっぱりと気味よいことであろうとは存ずるが、若き頃より合戦に臨んで、この

ヒゲ面に頬当てをいたし、冑の緒をしめる時の心持よきこと、今に忘れられなく、これまたお言葉に従い難う

ござる。折角のご忠告を一つも用い申さぬこと、心苦しくはござるが、以上の次第なれば、お許し下されとう

ござる」

さすがの正信もあきれて、2の句が告げず帰って家康に復命すると、家康があきれて

「清正どのが」

と笑ったという話が、駿河土産という書物に出ているそうです。

愚直な清正の誠実さと、古武士ぶりと、豊臣家に対する忠誠心とがよく表されていると思います。



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いつもありがとうございます。


sakura 20150218


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:別所長治
三木合戦は、1578年5月から1580年2月にかけて、織田信長と別所長治との合戦です。
織田家の武将・羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城に篭城したため、この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺しと呼ばれます。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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