【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その2

『真田幸隆、武田家の家臣に』

昌幸の父・真田幸隆は、海野平合戦でいったん所領を失い武田晴信(信玄)に仕えて旧領を回復しています。

このいきさつには、こんな話も伝わります。

武田信玄(1521-1573年)
ta.武田信玄 002

武田家の老臣・板垣信形が信玄に

「真田幸隆は、数年前に村上義清に所領を奪われ、ただ今では上州の長野氏に身を寄せていますが、なかな

かの人物であります。お役に立つべき者と存じますれば、お召だしあってしかるべし」

と説いた。

信玄は山本勘介に問うたところ、勘介もこれを推挙したので、召し抱えたという。

山本勘介という人物は、信玄の軍師として有名な人物ですが、信玄の武将・山県昌景の部下に過ぎなかったと

いうのが定説のようですから、この話はちょっと信じがたいところもあります。

当時の信玄は、士心民心ともに失っている暴悪な父・信虎を計略を持って駿河に追い出して自立し、鋭意富国

強民に努めている頃ですから、有意な武将を幕下に招致することに努めていたことは間違いないことです。

この時から30年、1574年5月に62歳で死ぬまで、幸隆は武田信玄の名将として戦功を立てること無数、総

身に35ヵ所の刀槍矢筒の傷跡があったそうです。

彼は弾正忠と名のっていたが、39歳の時、剃髪して一徳斎と号し、信玄が入道した時、お供して入道したのだ

という。



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ue.20100529 上田城 009


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:高野山
真田昌幸は関ヶ原の戦い後、高野山に配流されるも幸正(信繁)が妻を伴っていたため、「女人禁制」の関係で九度山に代わったと言われています。
流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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