【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その9

『武田家より木曾義昌の離反』


武田家が滅んだのは、1582年の春であった。

長篠に武田家の精鋭の殆どを失った後、織田信長は対武田戦の一切を徳川家康に任せていた。

傷つき狂う猛獣がしだいに衰弱してくるのを待っている冷酷さであった。

確かに、勝頼は傷を負って狂い立っている猛獣さながらであったのです。

武田勝頼一族の墓景(景徳院)
ta.武田勝頼一家の墓

洞窟の奥深く潜んで傷をいやして、気力の回復を待っていれば良いものを、東海道筋に出ては北条・徳川の

連合軍と戦い、関東に出ては北条氏と戦い、精力を消耗して行ったのです。

信長は6年半待った。

武田家の精力が尽き、士心民心ともに離反し内部がガタガタになったと見極めをつけたのは、木曾義昌の離反

からであった。

義昌は木曾義仲の子孫で、代々木曾の峡谷地帯の福島を居城として木曾一円の領主であった。信玄の時代か

ら武田氏に屈服して家臣となっていたのです。

名門であるので、信玄は一門並みに取扱い、自分の娘を娶らせて相当優遇してきたが、義昌にしてみれば恥多

い不自由な境遇として、常に不満があったのでしょう。

そのうえ勝頼の代になると、無闇に戦争ばかりして軍役が絶え間ない。義昌の不平は募らざるを得ない。

そのうち武田家の衰退が目だってきた。

「この辺が見切り時。おれには恨みこそあれ、武田家と運命をともにしなければならん義理はない」

と離反を決めて、織田家に内通を申し込んで来たのです。


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sakura 20140319


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:信之
真田昌幸の嫡子は、信之(信幸)で家康の家臣です。次男の信繁は、ご存知真田幸村、3男の信勝は、信之、信繁)の異母弟です。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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