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『黒田官兵衛』 その22

『明治まで続いた小寺家』

有岡落城が播州の形勢に及ぼした影響は大きかった。

先ず頑強に抵抗すること3年におよんでいた三木城が開城した。

すると、それまで毛利氏に心を通じていた諸豪族の城々は、ひとたまりもなく陥落したり、逃散したりした。

官兵衛の主人である小寺政職も御着城を捨てて逃げ出し、近国をうろうろしながら面の皮あつくも、官兵衛に

頼って信長の赦免を乞うた。

御着城
on.御着城跡 002

官兵衛は恨みを忘れて引き受けて、幾度か信長に嘆願したが、信長の怒りはとけなかった。

しかし、官兵衛がせつに乞うたので、ついにこう申し渡された。

「信頼の出来ぬ表裏者とわかっている者を、家人の中に入れることは出来ぬ。本来ならば首斬って捨るべき

者であるが、その方がそれほど申すことであれば、それは許す。どこへ住んでも咎めもせぬ。それ以上のこと

はしてやれんぞ」

そこで、政職は武士を捨てて百姓したり、商売を営んだりしたが、何れもうまくいかなかった。転々としている

うちに1582年に、備後の鞆(とも)で死んだ。

官兵衛は風の便りにこれを聞くと、秀吉に、このことを語り

「政職は御敵となったのでござるが、氏職には罪がないのでござる。拙者にとっては旧主の子でござる。介抱

を加えて、小寺の家の祀(まつ)りをつがせたいと存じる。許していただきとうござる」

と願った。

秀吉は官兵衛の情誼(じょうぎ)の厚さに感心して

「かもうまい。お咎めがあったら、わしからわびてやろう」

と言ってくれた。

官兵衛はすぐに使いを出して氏職を迎え、わが家において世話していたが、後年、長政が筑前の太守になると、

長政に頼んで知行地を貰ってやった。

小寺家は明治初年の藩制廃止まで黒田家の客分として続いたという。

官兵衛は良い血統を受け、よい親のもとに、よい教育を受けて育った人です。策士でもあり、意思堅剛の人で

あるとともに、このような良さも持った人だったのです。


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pig 20140511


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫ (4月29日の問題の解答)
正解:裏切り工作
幸村に対して家康から提示された、豊臣氏を裏切るための「破格の条件」を断ったのだが、それが豊臣家への忠誠のためであったか否かは不明です。
逆に幸村の兄や叔父らが徳川家の臣下であるために「幸村は徳川方の間者である」という豊臣家譜代からの誹謗中傷もあったという。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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