三木合戦 その1
『別所氏の三木城篭城』
春の城廻りの最終日(5月4日)に、三木合戦の地を巡って来ましたので、2回に分けて記事にしたいと思い
ます。
三木合戦は、織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちのひとつで、別所氏が播磨三木城に篭城。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺しと呼ばれています。
播磨三木城

<画像はクリックで拡大します>

秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻
略し、上月城の守備に尼子勝久を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入った。
1578年3月、別所吉親の甥で別所氏当主・別所長治が織田家から離反し毛利氏側につく。
別所長治像

別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調し、別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ
方針を決定、三木合戦が開始される。
別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が加古川評定での秀
吉との対立を招いたというものです。
三木城本丸 (中央の階段は天守台への階段です)

三木城には、東播磨一帯から約7千5百人が集まり篭城する。
この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸
篭り(もろごもり)だったという。このため多くの兵糧を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となってき
ます。
三木城の遺構は殆ど残っていません。
本丸の井戸「かんかん井戸」

天守台はびっくりするほど狭いです。

ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:別所長治
別所長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法と毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の1580年、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害しています。享年23歳
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
春の城廻りの最終日(5月4日)に、三木合戦の地を巡って来ましたので、2回に分けて記事にしたいと思い
ます。
三木合戦は、織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちのひとつで、別所氏が播磨三木城に篭城。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺しと呼ばれています。
播磨三木城

<画像はクリックで拡大します>

秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻
略し、上月城の守備に尼子勝久を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入った。
1578年3月、別所吉親の甥で別所氏当主・別所長治が織田家から離反し毛利氏側につく。
別所長治像

別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調し、別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ
方針を決定、三木合戦が開始される。
別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が加古川評定での秀
吉との対立を招いたというものです。
三木城本丸 (中央の階段は天守台への階段です)

三木城には、東播磨一帯から約7千5百人が集まり篭城する。
この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸
篭り(もろごもり)だったという。このため多くの兵糧を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となってき
ます。
三木城の遺構は殆ど残っていません。
本丸の井戸「かんかん井戸」

天守台はびっくりするほど狭いです。

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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:別所長治
別所長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法と毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の1580年、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害しています。享年23歳
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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No title
秀吉は、自分の兵力を出来るだけ殺さずに、攻撃。
干ごろし、水攻めまったくね。
孫子の兵法でもありますね。
飢えは、壁の中から藁を出して煮るとかすごいことになるようです。
干ごろし、水攻めまったくね。
孫子の兵法でもありますね。
飢えは、壁の中から藁を出して煮るとかすごいことになるようです。
hippopon さま
こんばんわ~
秀吉さんは攻城のプロですね☆
> 孫子の兵法でもありますね。
> 飢えは、壁の中から藁を出して煮るとかすごいことになるようです。
清正さんの熊本城は、畳や壁に「芋がら」を使っていたそうですよ^^
秀吉さんは攻城のプロですね☆
> 孫子の兵法でもありますね。
> 飢えは、壁の中から藁を出して煮るとかすごいことになるようです。
清正さんの熊本城は、畳や壁に「芋がら」を使っていたそうですよ^^