『黒田官兵衛』 その24

『鳥取城の渇え殺し』

鳥取城は3ヶ月も経つと、城兵、その家族など合わせて4千の食料は尽きた。

草木を食べ、牛馬も殺しては食べ、ついには餓死者が出た。

その餓死者の肉まで食うという惨状に、城主・吉川経家は、ついに開城を決意、自分は腹切るという条件で

城兵の助命を申し出る。

鳥取城 (この門を通過すると、何かを感じるのは私だけでしょうか)
to.鳥取城 001

秀吉は吉川経家の節義に対して、開城するならば切腹の必要なしと答えたが、経家の決意は固かった。

切腹に際して、吉川経家は遺書をしたためた。

吉川元春には

「日本国を両分する織田、毛利の境である城で戦ったのは武士の本懐」

と記し、遺児たちには

「我ら(子どもたち)一人前御ようにたち、おのおのをたすけ申し、一門の名をあげ候」

と毛利元就以来の伝統ともいうべき兄弟の結束を書き置いた。

秀吉は、酒肴を贈って経家に永別の宴を張らせ、さらに城兵たちには、大釜で粥を煮て振舞ったという。

自害後、その首は秀吉の下に届けられた。秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝

わる。

その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られたという。


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pig 20140524


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:仙石忠政
1601年真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊されてしまう。徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。そのため、信之時代には上田城は存在しておらず、信之を上田城主とするのは正確ではないようです。
1626年代わった仙石忠政により再建が始められたが、2年後に忠政の死により城普請は中断される。
以後、仙石氏三代の後は松平氏が明治維新まで城主を務めるが、本格的な再建は行われなかった。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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こんばんは

惨いですね…

切腹の必要なしならしなくてもと思いますが犠牲になった城兵がいるわけですからそういうわけにはいかないのでしょう…

たけぞう さま

たけぞうさん、こんばんわ~

今の常識で計れるものは、ないですよね!
この城主だって、自分で棺おけを持って城主になった来たと
いうのですから。

今の子会社に出向とは、スケールが違いすぎますね!!
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