『黒田官兵衛』 その25

『本能寺の凶変』

小寺家が滅んだ後、官兵衛の身分ははっきりしません。

小寺家が滅んだ後、官兵衛は織田家の臣になったのか、秀吉の臣になったのかはっきりしませんが、秀吉の

下について参謀的役目を勤めています。

この頃に、官兵衛の苗字は黒田にかえったようです。

小寺は織田家の御敵であるというので、そうしたのです。これは当時の習慣でした。

備中高松城攻め (備中高松城訪問記は「こちら」です。)
bi.備中高松城 001

有岡城で見せた信念の固さは、官兵衛という人物の一面を知るに最もよい材料ですが、次に他の一面を最も

雄弁に示すのは、本能寺の凶変直後における働きでしょう。

本能寺の凶変があったのは、1582年6月2日の早朝、その知らせが備中高松城を攻囲している秀吉の陣に

ついたのが、4日の夜半。

使者は信長の家来・長谷川宗仁の出したもので、川角太閤記には、先ず秀吉が会ったとあり、黒田家譜では

官兵衛が会ったとしている。

秀吉が会うのが自然のように思えますが、官兵衛は参謀長的地位にあるので、こんな報告は先ず参謀長が

面接するものと思えます。

黒田家譜によると、

官兵衛は、書状を見て驚いたが、直ぐに落ち着きをとり戻し

「さても汝(われ)は早くついたものだの。このこと決して人に語ってはならんぞ。こちらへ来い」

と、手を引いて台所へ連れて行って酒食を与え、休憩させておいて、秀吉の前に出て手紙を披露した。

秀吉は驚き、呆れ、愁傷し、呆然たる有様であった。

官兵衛は膝を進めて、これからの形勢の変化を推理し、天下は明智を討った者の手に帰するであろうから大

いに努力なされよと説いたという。


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いつもありがとうございます。


pig 20140531


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:小山評定
家康は7月21日には江戸城を立ち、7月24日に下野小山に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされた。
家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる「小山評定」です。
家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。

≪本日の問題≫


                                           <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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ちょっと待て その一言が 命取り

 こんにちは。先日より楽しく読ませてもらっています。
 戦国時代は私も大好きで、特にこのところ紹介されている真田昌幸、黒田孝高あたりには食いつきが良いです。でも大河は端から見ていませんがね。
 中国大返しの孝高の一言は、彼の能力を示す最高の一言であったと同時に、最大の勇み足であったと思います。秀吉に天下を獲らせたあと一押しとして有名ですが、それ故に秀吉に警戒されます。彼が豊臣政権で得た石高は働きに比べ微々たるものでした。的を得過ぎた進言はとても危険なものなのでしょう。
 もっとも、そういう言葉が後世に残される筈は無く(トップシークレットですから)、創作でしょう。ですが、そういう進言がしばしばなされていたと考えるのは自然です。切れすぎたという言葉は彼を指す言葉かもしれません。

miss.key さま

こんにちわ~

コメントありがとうございます♪

戦国時代って小説も書きやすいでしょうけど、類推の世界ですから個人でも
楽しめますよね。^^

私の場合は歴史の現場に立ち、山を見、空気を感じて、兵たちの思考に触れる
のを楽しみに、全国を駆け回っています。
史実が分からないので、より楽しめているような気がします。^^
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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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